2019年開成中学校社会より 豊臣秀吉⑦ 秀吉の海外戦略
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
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戦国時代。日本を起点にしているのに思ったよりもグローバルな話になりました。
ちなみになんですが、当時の大阪京都には多くの宣教師が入り込んでいたため、西軍の武将は多少なりともキリシタンかぶれしていたようです。
千利休のようなお茶もありますが、武器を置いて安全に密談できる茶室。
ここでの交流が育んだ情報、ネットワークが半分伴天連(ばてれん:キリスト教)と結びついている。
この茶人×キリシタンというネットワークは意外かもしれませんが、環境を考えると道理だなと思います。密室。武器なし。安心して集まれる。
ということは、密談できる。その場の安全は守られる。人を介しての紹介でしか出会わないから信頼がある。
お茶も茶器の話になると明、朝鮮が絡みます。自然と海外の話になりますね。フィリピンの痰壺を高く売りつけて殺された貿易商もいましたが、新情報の接点、情報そのものの信頼度を一度に担保していた場だったといえます。
当然世界情勢の最前線でもあったと思います。
当時戦国時代はもう死と隣り合わせだったので、宗教、哲学にすがる気持ちはあったのでしょう。
蒲生氏郷、真田幸村、前田利長、黒田如水などなど。みんな貿易にも興味はあっただろうし、全く関心ないわけじゃないよね、という感じでした。当時流行っていたんですね。。ただまあ、大変日本的な感じで、信仰していたとしても神社もお寺も教会も拝んでいたのでしょう。それは別で神社やお寺との付き合いの記録があるのでわかります。健全です。
摂津国(大阪府)、高槻城主の高山右近に至ってはもう立派なクリスチャンとして、江戸時代のキリシタン国外追放令を受けてフィリピンに向かう途中で亡くなりました。結構筋金入りの信仰っぷりで、いろんな大名を勧誘して入信させています。しかし戦国の世に珍しく、人徳のある人物だったようです。「右近様が言うなら」という感じで入信していったんでしょうか。
ちなみにこの高山右近。江戸時代に入って亡くなったのですが、2016年になぜか教皇フランシスコが認可して列福。めちゃ最近です。西欧が日本で仕掛けようとしている文脈として、現代まで繋がっていますよ。
それでは話を秀吉に引き付けていきましょう。
■小田原攻め
小田原征伐とも呼ばれますが、1590年のこの戦役で秀吉は日本統一を果たします。
小田原は関東管領上杉氏の土地でしたが、北条早雲が出てきてから戦国時代は北条氏の土地となっていました。小田原は守りに強い土地で、天然の要塞です。
群馬県に沼田という場所があるのですが、ここは関東、北陸越後、東北に抜ける上での交通の要衝です。この沼田、真田家が死ぬほどこだわった土地なのですが、要衝だけに紛争地帯になります。真田氏、上杉氏、北条氏でもめた結果沼田領裁定で決めたことを北条氏は武力で一部履行した、という理由で秀吉が攻撃に出ます。
指揮官は北条氏直、氏政。諸説ありますが北条氏は8万人規模で、一大名としてはかなりでかいんです。前田、上杉、真田を合わせて3.5万人規模。天然の要塞にして巨大な軍勢。豊臣軍はさすがに15万人くらい連れて行ったので圧勝のように見えますが、当時の合戦を考えると巻き込み方も規模もでかい。そんな戦いでした。
■朝鮮出兵ってなんだったの?
さて、北条氏を倒し、天下統一を果たした秀吉。もう部下に分け与える土地がない。そこで秀吉が行ったのが朝鮮出兵。地味に結構なインパクトがありました。未だに韓国人に日本が攻めてきた、て言われますが、なんでこんなことしたんでしょう?
秀吉が高齢化して頭がおかしくなったから、みたいなよくわからない理由が意外と主流の理由で語られていますが、そんなことあるでしょうか?正直教科書レベルで説明が必要な話なのに、まともな教育とは思えません。
先の世界情勢から解きほぐしてみてみましょう。
文禄・慶長の役。
異国に(1592)行こう文禄の役。
異国な(1597)んだね慶長の役。
二度も朝鮮半島に渡っています。
この頃の状況として知っておいてほしいのは、日本人としてはもう何回も朝鮮半島、明国も含めて渡航しまくっているということ。当然西国を中心に言語ができる人もたくさんいたでしょう。行けるの当たり前、行けて当たり前です。
そして当時の李氏朝鮮と戦いたかったわけではなく、明に入るために通してほしい、という内容でした。
単純に通してほしいと言っても、そうですかと応えることもないので、結局李氏朝鮮と抗戦することになります。
ちなみに当時の李朝の王族会議では、日本軍が圧倒的に強いため明から援軍を呼ぼうという話が出ていました。しかし国王は「明を呼んだら秀吉軍以上に蹂躙され、占領されるからやめよう」という結論を出しています。
この辺は李氏朝鮮の正史として全部文献が残っています。ぜひ漢文をやって読んでみてください。韓国人は自国の歴史が読めない教育になっています。
しかし、秀吉はそもそもどうして海外遠征を始めたんでしょうね。
ここには少し裏事情があります。
それはスペインの影響です。
1584年にイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、日本のキリシタン大名を用いて中国を征服する計画を提案しています。スペインが明に攻め入るときにキリシタン大名も連れて行けば、ライバル関係にある日本は明に攻め入るからキリシタン大名に指示出しすれば、秀吉や家康の命令がどうであれイエズス会に従うだろう、というものです。
当時日本は世界最大の鉄砲保有国。スペインは海軍は強いもののさすがに遠いので補給が途絶えて全滅することが見えている。
つまり、スペインイエズス会は、中国利権を手に入れるために、常に日本を中国とぶつけようとしていた。
これは明治以降も、そして今も常に西欧諸国が日本に仕掛けてくる構造です。
カブラルの意図は、日本と一緒に明を取る。そしたら朝鮮半島は簡単に手に入る。朝鮮半島に軍事拠点を置き、時間をおいてキリシタン大名を寝返らせて日本を二分して戦う。こんなシナリオを描いていました。
こうした考えを、秀吉は察知していたのでしょう。
イエズス会のルイス・フロイスが書いた『日本史』には『伴天連追放令』を出す直前に秀吉が家臣、貴族にいった言葉が記されています。
「伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。」
ここまで認識しているとなると、恩賞として与える土地の確保など事情はいろいろとあったかもしれませんが、秀吉の対外政策は単なる無謀な膨張主義というわけではなさそうです。
1.恩賞など日本国内事情の理由
2.西欧列強がアジア覇権を強める中、日本も外に防衛ラインを引く必要がある
3.対スペイン、ポルトガル拠点の攻撃
考えられる妥当な理由としては上記かと思います。武器のことを考えるとどう考えても明を全て制圧、なんて考えないと思います。
李氏朝鮮は李舜臣(イスンシン)が率いる亀甲船を使った水軍で戦います。今も昔もですが朝鮮半島が有事の時は、裏切り、讒言、仲間割れなどがごちゃ混ぜに膨れ上がり混乱します。そんな中真面目な将軍がおり、最後の砦として頑張ります。いろいろありましたが日本軍の方が圧倒的。李舜臣は最後船12隻で日本と戦い、途中戦死します。朝鮮側の文献では勝ったと言っていますが、撤退理由は秀吉の死です。結果的には苦労多く得るものが少ない戦役でした。この戦後処理が徳川の治世まで続きます。
ちなみにこの時に連れてきた朝鮮人の陶工が、九州、山口県などに住み着き、窯を持ちます。これが伊万里、古伊万里などの日本の伝統文化になります。
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