平成29年桜蔭中学校社会①より 地理編富山⑤ 北前船
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。
富山の薬売りのビジネスモデル。結構現代的にも学ぶことが多いですよね。
データベースでのビジネスはWEBの世界でも同様です。LINEは韓国製です。データサーバーは日本にはありません。しかるべきお金を出せばデータ抜き放題、分析し放題と思っておいた方がよいでしょう。「顧客データの漏洩がないように守る」というのが正しいのですが、実際可能か。
LINEもこないだ「データ漏れちゃった」って言っていたのに、国立図書館のデータも委託しています。漏れたのか、漏らしたのか、盗まれたのか。
あるいはアップデートの時に小さい文字で書いてある読むの不可能な文面の中に「勝手に使っていいよ」って書いているのか。
今の時代、データが一番大事です。
データを取られるとどうなるか。日本人よりも日本の市場や好みがわかってビジネスができる。つまり、日本で日本人の企業が勝てなくなる。利益が吸い出される。そういう構造になります。
データは新たなヘゲモニーの一極ですね。
AI、ビッグデータ、DX(デジタルトランスフォーメーション)くらいは出題されそうですね。
さて。顧客データ管理も大事ですが、外部情報取得も難易度高いから貴重な情報ですよ。
今日は船で日本海側を回ってみましょう!
■北前船(きたまえぶね)
もう一つの越中富山の産業が北前船交易です。
対米貿易が主流になったため高度経済成長期以降、太平洋側の都市が発展して、日本海側を「裏日本」なんて呼んでいますが、日本海側はかなり栄えていました。江戸時代でも、100万都市だった江戸の町がすごい、とされていますが新潟はさらにそれを上回っていた。
それだけの人口を支える産業、資源、食料が当時から地域にあったということです。北陸、東北などの雪国は寒冷地のため貧しいというイメージがありますが間違いです。戦国時代の太閤検地でも今の福島あたりで90万石。加賀100万石。仙台藩60万石。
加賀100万石は外様大名なのに圧倒的です。
尾張徳川家、紀伊徳川家でも60万石規模です。
それを超えている。
石高は「お米の生産量」を基準に豊かさを図っていますが、それ以外にも交易がある。資料にあまり上がってこないプラスの豊かさ。それが日本海交易です。
対中国、朝鮮、ロシア、蝦夷地、樺太、アリューシャン海域まで交易できていました。更には薩摩藩を中継地として琉球まで。
日本海側の情報ネットワークを北前船が支えていました。
福井県、越前藩松平春嶽が幕末意見を持ち、坂本龍馬の船中八策はほとんどこの人のアイディアと言われていますが、福井県も同じ地理環境ですね。日本海の北前船からの情報ルートはかなり役に立っています。福井藩も船で東西、海外の情報が分かる。そして京都に近かった。
現在でも東京大学合格者輩出県として名高いですが、特殊な教育方法があるのでしょうね。(予習、復習の徹底度がすごいと聞いております)
前述の越中富山の薬売りもそうですが、北前船を掛け合わせるとどういうことになるかわかるでしょうか?
当時蝦夷地は「日本」ではなかったのですが、北前船が交易で入手可能でした。樺太まで普通に行っていました。途中酒田や男鹿など寄りながら、行きは京都付近から入手した着物などを売り、帰りには北海の海産物や北方の珍しいものを積んで帰ってきました。行っても売れて帰りも売れる。倍々船と呼ばれました。
蝦夷地まで行くとアイヌ交易のネットワークと被ってきます。ここまで行くとロシア経由でヨーロッパの物産、清朝物産、アリューシャン列島のラッコや海獣の毛皮、琥珀などレアアイテムが入ってきます。もちろん高価で売れます。
アイヌ人に対して、文字を持たない原始的な民族みたいなイメージがなかったですか?最近は『ゴールデンカムイ』などマンガでも取り上げられているのでだいぶイメージが変わっているかもしれませんが、江戸時代に松前藩ができてから、半分収奪していたというのが実態でしょう。しかしそれだけだったのか?
酋長イトコイ

酋長ツキノエ

写真はアイヌの酋長の当時の絵です。
もうコート着ている。靴も履いている。むしろかっこいい!
当時|蝦夷錦《えぞにしき》と呼ばれていましたが、北方ルートで流通してきたコートや高価な中国服を総称して蝦夷錦と呼び、天皇家まで納められていました。
今の北海道も自然が豊かで食料生産など半端ないです。
明治時代の蝦夷地開拓の苦労もすさまじいですが、江戸時代も東北の雄藩を中心に蝦夷地開拓、蝦夷地警護が進んでいました。
ペリーが来る遥か前から、東北地方にはロシア船が来ていたんです。もちろん日本海側にも来ていて、たまに武力衝突も起きていました。
日本人は樺太当たりの北海まで、かなり自由に行き来していたんですね。
ちょっと調べてみないといけないですが、日本地図を作った伊能忠敬。東京深川の出身。千葉県佐原市で過ごしました。
弟子の間宮林蔵は樺太まで渡って大陸との海峡を間宮海峡と名付けましたが、ひょっとすると、ひょっとしなくても、日本海側の貿易商はとっくの昔にその海を知っていた可能性が高いです。地図を作る測量士ではなく、現場を生きる貿易商だったから名が残らなかっただけだと思います。
もちろん北海道アイヌ、樺太アイヌも知っていたのではないかと思います。
昔からの普通の交易ルートですからね笑
さてさて。
北の海の次は南へ行ってみましょう!
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