2018年開成中学校社会①より 近現代史 西南戦争

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突然ですが問題です。
熊本で起きた士族の反乱は?
1.細川の乱2.阿蘇の乱3.秋月の乱4.神風連の乱

1877年西南戦争
鹿児島県になった薩摩藩の実家に、西郷隆盛は帰りました。明治政府の外交方針と合わず、特に名誉が欲しいわけではなかったので地元に帰って農業をしていました。
しかし明治政府に対する不満は日本各地で噴出していたのでした。勝った側の薩摩藩でさえもそうだったので、明治初期の政権運営、いかばかりのものだったのかと推測します。だいぶヤバかったんじゃなかろうか…
ただ、いいか悪いかはわかりませんが新しい制度を作る必要があったことは確かであり、その中で税金を徴収して軍事力を高めなければならない時代でした。一部が儲かる栄枯盛衰はこの時にあったと思いますが、産業へ、軍事力へと資本投下され、結果が出たことも確かです。私利私欲に走るのはごく一部で、大半が心ある人達だった事が読み取れます。

西南戦争ですが、このころは士族の反乱が勃発しまくっています。
サムライが廃刀令で帯刀禁止、四民平等で侍階級がなくなる。更には欧州視察から帰って来たメンバーと征韓論の対立が起こりました。(明治六年政変)ここで西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野。実に軍人、官僚約600人が職を辞することになりました。特に近衛兵が大量に離脱し事実上解体しています。征韓論による対立が主とされていますが、背景として薩長派VS土肥派の対立が原因だったという説もあります。
結果江藤新平の故郷で佐賀の乱が慕発。熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士宮崎車之介を中心とする秋月の乱、山口県では前原一誠らによる萩の乱が勃発。
1877年には西郷隆盛を対象とする西南戦争が勃発しました。新政府を作った維新志士の御膝元で大反乱です。政府は反乱軍の2倍以上の兵力を投入しましたが、兵数、装備、兵站など政府軍はあらゆる面で西郷軍よりも有利だったにもかかわらず同数の戦死者を出し、政府軍の弱さを露呈しました。死に物狂いの武士と重装備の平民では、古い様式の武士の方が個体差では強かった、ということですね。ここから富国強兵策の基礎が考え直されたともいわれます。

ここで警察トップだった|川路利良《かわじとしよし》(初代警視総監:鹿児島県士族)が剣術に秀でた部隊を編成し、抜刀隊を作りました。川路利良は「日本警察の父」と呼ばれています。彼は大久保派でした。近代陸軍のための徴兵令を訴えていた山形有朋陸軍中将は不本意ながらもサムライの強さを理解し、抜刀隊を許可します。

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西南戦争 抜刀隊



ここでは佐川官兵衛という会津藩士が抜刀隊に所属していた、という誤解があります。正式には豊後口第一警視隊に所属し、抜刀隊編成以前に戦死。会津藩士が警察隊に入り、戊辰戦争の仇として戦った話があります。明治政府が復讐心を利用したといわれますが、実際は当時のメディアの印象操作のようです。
 これは最大の激戦だった田原坂での抜刀隊の戦いにおける犬養毅の報道によって言説が広まりました。しかし、本人は従軍しておらず伝聞情報。言を発したといわれている田村五郎三等少警部の所属を確認すると分隊の「遊軍」。
組織構成として、抜刀隊は薩摩藩士族を中心に編成されており、実質的には西南戦争は薩摩VS薩摩の戦いでもありました。

良いか悪いかは別として、西南戦争をもって、幕末に中心的な役割を果たした長州藩・会津藩・薩摩藩はそれぞれが長州征伐、戊辰戦争、西南戦争を経て故郷を戦禍に巻き込まれ、以後内戦は終結していきました。結局内戦が発生してしまったのは悲しいですね。血で購った近代化。国内統治も難しいですが、対外戦争はさらに困難を極めます。

じいちゃんのじいちゃん世代の話なので生々しく感じます。150年という時間は古くもあり新しくもあり。
それでは今度は朝鮮半島の近代化と比較してみていきましょう。
日本は対外戦争に進んでいく時代です。

答え 4.神風連の乱