2018年開成中学校社会①より 近現代史 ② 明治の始まり

どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。

文明開化して明治時代。はじまり はじまり~

突然ですが問題です。
明治政府が世界一周に出かけた使節団の名前は何でしょう。
1.欧米使節団2.岩倉使節団3.遣欧使節団4.三条使節団

■明治時代の始まり
江戸時代が終わり、天皇が東京の皇居に移り明治時代が始まりました。
現在の皇居は元江戸城跡地です。江戸城復活したら世界最大級の観光資源になると思うのですが、いつか天守閣を復活させてほしいです。
さて、明治時代が始まりました。明治時代は幕末の歴史と連動しており、そのまま欧米列強の帝国主義とどう対峙していくか、という課題を抱えながら現代に至ります。本質的には世界の大航海時代、日本の戦国時代から流れは現代まで変わっていません。いかに他国を、異民族を支配し利益を吸い上げるか。現代ではより複雑になり表層的には見えないように工夫されていますが、グローバリゼーションの本質とも連動しています。

幕末に欧州に世界一周旅行に行ってきたリーダー達はこう見抜きました。
①産業革命は日本でも起こせる。
②産業革命は30年あれば追いつく。
③同時に軍事組織(先に海軍力)を刷新していけば欧米列強にも負けない

これはイギリスとドイツ、ロシアなどの産業革命の発展度合いを比較し、産業革命後進国のドイツでも30年遅れであることから着想したものでした。
更に技術をどん欲に学び、早く実践に移せば追い付ける。

国内対立はいろいろありましたが、幕末で一つ言えることは、
開国派攘夷派も、「日本の独立を目指した」という点です。
開国派は開国したくてしたわけではありません。不平等条約を一時呑んでも、上回り、絶対巻き返すという計画でした。明治時代はそれを具体的に進んだ時代でした。攘夷派ともある意味気持ちは同じでした。進む道が違っただけで、同じ山を登っていたのでした。攘夷派は何も考えていないで叫んでいたようにも見えてしまいますが、彼らが外国人に「とにかく切りかかる」というヤバさはある意味正しく、日本の植民地化を狙う外国人も日本に容易に踏み込んでこれず牽制になりました。双方合わせて、日本は独立を維持できました。1945年敗戦までは。

明治政府はまず殖産興業から始めました。
殖産興業とは、機械製工業鉄道網整備資本主義育成などの諸政策を指します。明治政府が始めた諸政策を総称している部分がありますが、西欧を視察し急速に追いつこうとしました。

■岩倉使節団の世界一周視察
1871年に岩倉使節団が派遣されました。アメリカからヨーロッパ諸国を視察。政府首脳×留学生の107名で構成されました。この頃の留学生、政府首脳ともう世代を超えて直結ですね。
サンフランシスコからアメリカを横断しワシントンへ。8カ月アメリカに長期滞在した後、イギリスもグルリと周遊。ヴィクトリア女王にも会見しました。ドイツ(プロイセン)では宰相ビスマルク主催の晩餐会に参加。欧州は12か国を回り、地中海からスエズ運河を通過。紅海を経てアジアでは欧州植民地のセイロン(現在のスリランカ)、シンガポールサイゴン(ベトナムの首都)、香港上海等を短期間で回りました。

この時の目的は、
①条約締結国の元首に国書を提出する
②不平等条約改正のための予備交渉
③西洋文明の調査

でした。通常政府が丸ごと入れ替わると、前の政府と外国の約束がご破算になったりします。「いや、前の政府が言っていたことは引き継がないよ」というのもまあ普通の事です。中華人民共和国成立時も清朝の時の条約をほとんど引き継いでいないですね(なのにチベット、モンゴルなど支配していますが)。この時正式に明治政府と海外の関係を改めて確認する必要があり、あわよくば不平等条約も撤廃できないか、と進め始めたのでしょう。この時岩倉具視はアメリカに2往復したともいわれています。(資料を日本に忘れて取りに戻ったとか笑)

留学生もそうそうたるメンバーで、出身藩も関係なくオールジャパン体制です。留学先も英(イギリス)仏(フランス)米(アメリカ)独(ドイツ)露(ロシア)と多種多様。
この時どこが勢力を伸ばし覇権を取るか分からないですし、日本としては全方位で情報収集できる体制を作ったのでしょう。アメリカからの情報のみを世界と考えている現在の日本の情報の取り方よりもはるかにグローバルでした。独自外交と真剣さが伝わってきます。
この外遊と並行してに国内内部で異変が起こっていくのですが、また今度。

答え 2.岩倉使節団