2018年開成中学校社会①より 近現代史 日露戦争講和条約

どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。

日露戦争に勝った日本。もう世界の注目の的です。

■講和会議とその後
日露戦争。軍隊だけでなく外交、情報工作なども含めて多地域からの総力戦でした。人によっては第0次世界大戦と位置付ける人もいます。
それくらいグローバルな戦いだったんですね。いつか全部解きほぐしてみたいです。
日本の勝利に終わった日露戦争。しかし実際は「引き分け」というのが正しいでしょう。日本は確かにロシアの南下を防ぎ、陸軍海軍共にロシアに勝ちました。
しかしロシアが本気で戦おうとしたら、まだまだ十分な戦力を残していました。
しかし先ほどのロシア革命フィンランド独立運動など、欧州の御膝元がぐらついていて内部の対応で対応できなくなってしまい、外でやっている戦争はもう終結しよう、という動きになりました。
日本ももうギリギリで戦争継続は無理な状態でした。

アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で、外務大臣小村寿太郎はロシアと講和締結することなりました。
日本はロシアを土壇場まで追い詰めましたが、多大な借金と兵士が死にすぎたため、講和を結ぶしかありませんでした。
ポーツマス条約によって日本は
①遼東半島(関東州)の租借権
②東清鉄道の長春―大連支線
③朝鮮半島の監督権

を得ました。この鉄道守備隊がのちの関東軍へと変化していきます。
しかし賠償金を得られなかったため、決して有利な条約とは言えませんでした。小村寿太郎は殺されることを覚悟して帰国しました。
日露戦争の借金は第1次世界大戦後まで残りました。満州経営での利益、第1次世界大戦バブルでの莫大な利益をもってしてもすぐに完済できず、借金を持ち越しました。

ここから朝鮮半島、満州経営への動きへと繋がっていきます。

日露戦争について一つ振り返りたいと思います。
それは戦後において、日露戦争の評価が高いのは海軍でした。バルチック艦隊をやぶった事自体は物凄い戦果です。日本に好意的だったインドネシア人がバルチック艦隊が日本に向かって行くのを見て、これで日本も終わりだと思い涙を流したそうです。戦後仲介役となるセオドアルーズベルトですが、開戦前「日本が勝つ見込みは20%だろう」と語っていました。
実際に20%もなかったのではないか、というのが実際のところで、のちの日米開戦の時よりも国力の差があったのです。
この勝利に導いた決定的な要素は何なのか、という時に、陸軍の動きと位置付けを見る必要があります。戦後は陸軍悪玉史観が続き、現代まで続いています。しかし日露戦争当時、欧米列強が攻めてきても3年は耐えられるとされた旅順要塞。この攻略がポイントです。(開戦時完工度は40%でしたが、メインの要塞はできていました)日本陸軍は旅順要塞を4カ月で攻略します。これ自体がかなり驚異的なことです。旅順要塞は港湾を望む山々に築かれた要塞で、満州の背後を狙う位置、港湾に入る船を沈められる状況だったため、攻略が不可欠でした。日本海軍は旅順艦隊に対して単独で対応することに拘り、「旅順攻略は海軍の要請にあらず」という一文も残っています。しかし陸軍は戦略を練り続けます。

乃木将軍は「死神」と呼ばれるくらい犠牲者を出しました。しかし、本来的には日本軍はここで陸海合わせて全滅、日本人全員植民地化奴隷となって滅亡、という路線の方が濃厚だった戦局で、決死の覚悟で戦うことで、多大な戦死者を出しながらも二〇三高地を攻略します。

 実際に戦闘は難航を極めます。攻城戦になれていなかったこともありますが、初期段階で二〇三高地の重要性が認識されていなかったことなどあります。しかし、この奪取が可能になってから戦局は激変します。高い場所から旅順港を攻撃。港まで弾丸が届くためロシアの旅順艦隊を沈没。海軍要請はありませんでしたが、結果的にロシア海軍に大打撃を与えたのは陸軍砲兵でした。この旅順要塞攻略がかなめであり、陸軍が旅順を攻略したからこそ、ロシアのバルチック艦隊が来ても補給もできず、長旅から直接戦闘に臨み敗北します。
 また、この旅順要塞陥落から各国の外債の買い手がついたと言われています。これまでは「まあ負けるでしょ」と思われていた日本が西欧列強でも攻撃が難しい要塞を落としたのです。これにより「万馬券なんじゃないか!?」となり投資が舞い込み始めました。戦闘中では軍備に充て切れないので時期的に不十分とは思いますが、世界各国が日本の見方が変わった瞬間です。そして長旅をしてきたバルチック艦隊にも、日本海海戦で殲滅します。
 戦闘初期から日本陸軍は多大な犠牲を出し、1個師団単位で全滅するくらいの死傷者を出していました。しかし白襷隊など有志の突撃舞台を出撃させ、あと少しでロシアの守備隊を抜く状態を作り続けます。最終的に児玉源太郎の満州軍が北部から攻撃したこともあって旅順要塞は陥落しました。
 ロシアは兵力を陸軍に向けていました。これは海軍よりも陸軍を恐れていたことでもあります。

 乃木将軍は降伏してきたステッセル中将と帯剣を許して水師営の会見を行い戦争終結。武人としての礼節を守る日本軍はロシア軍にも敬意を持って受け入れられました。