聖徳太子って本当にいたの?

どうも。歴旅です。
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私が子供の頃には聞いたこともなかったですが、
最近言われている「聖徳太子はいなかった」説。
どゆこと????本当?
そんなこと小学生に言われても困るでしょう。覚えていいのか悪いのかわからない。いったいどっちなの?という疑問に真面目に答えてみたい。

 現段階で言えるのは、
「聖徳太子」という名前の人はいなかった 
 ということです。シンプルな話で、厩戸皇子(うまやどのおうじ)、豊聡耳皇子(とよとみみのおうじ)、のちに上宮聖王、聖徳王、法大王(のりのおおきみ)など複数名前があるということです。不思議なのは『日本書紀』ではこの人物を十種類近くの呼び名を使い分けていて、どれが本名かわかりません。名無しの権兵衛状態なのです。(十種類も分けて使いますかね?混乱しかない。。)

「聖徳太子」は100年以上後に書かれた懐風藻という歴史書の序文に初めて出てきたのであり、当時そんな名前の人はいなかった、という意味では正しいでしょう。

 なぜそんなことになったのか?
 これは歴史の記録と深いかかわりがあります。歴史書は現代政権の正統性を謳う機能があります。そのため過去からの歴史と業績を以って正当性を訴えるのですが、そのためには敵対する勢力の良い実績は記録したいとは思いません。
 中国の歴史書は基本的に前政権を完全否定し、だから現在の王朝が立ち上がった、という形式になっています。日本は萬世一系(天皇家は一つの血筋でつながってるよ)という体裁なのでそうした構造は持たないのですが、しかし『日本書紀』と当時の記録を照合していくと、黙って消していきたかった事実があるように思います。
不思議なことに平安時代に至るまで、(江戸時代でもこの議論がありました)こうした議論が多く生まれおり、その一つが聖徳太子にまつわる出来事で、謎がたくさんあるのです。

平安時代に成立した、『上宮聖徳法王定説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)という本があるのですが、不思議なことに聖徳太子の生前の業績よりも死に執着した記録が多く、聖徳太子の「死」の定義を何回も念を押しています。
(ここで死んだんだ。聖徳太子が死んだんだ。確かに死んだんだ。って。。。)
この本は法隆寺秘蔵物で、のちに知恩院に移されて現在国宝です。

聖徳太子の死について、また日本書紀にある聖徳太子の記述は摩訶不思議な記録になっています。
 聖徳太子の息子とされる山背大兄王(やましろのおおえのおう)の滅亡についても不思議で、法隆寺は聖徳太子一行を祀っている寺であるにもかかわらず、そこで滅亡した一族の墓は見当たりません。これも記録と現実の状況が矛盾しています。通常本拠地としているお寺でこのような大量虐殺があったのであれば、そのまま祀られていてもいいはずなのにお墓すらありません。
法隆寺は謎の多い寺ですが、行かれた際は是非現地でいろいろ尋ねてみてください。他の史跡もですが、教科書で教える歴史と、現地に残る歴史では全く異なるものがたくさんあります。詳細すぎて教科書に書ききれない、ということもありますが、やはり歴史は勝者が書き残したものだからです。神社やお寺にも、地域の歴史が残っていますが、常に発見があると思います。

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Posted by rekitabipapa