2018年開成中学校社会①より 近現代史 日中戦争
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。
問題です。
日中戦争のきっかけとなった事件は何でしょう。
1.江華島事件 2.柳条湖事件 3.盧溝橋事件 4.上海事件
今日は日中戦争です。
1937年、日中戦争がはじまりました。泥沼の戦い。
ここに至るまでの流れを追ってみましょう。
日露戦争以降満州に権益を広げ、満州国を作り上げた日本。これはある意味戦略上機能していました。ここでは当時の呼称を用いて満州と支那という言い方をします。理由は当時のエリア区分をしたいからです。「清朝」という枠組みが崩れ、満州族と漢民族の対立でなんて呼べばいいの?となったからだと思います。(呼称自体はChinaに由来し、当時中国人も自ら使用していました。日本ではなくジャパンと言われているようなものなので適切かどうかはさておき…)
日本にとって満州は朝鮮半島と同様対ロシアのバッファーステート。同時に経済的に意味も多分にあります。満州皇帝、満州族にとっては清朝からだいぶ小さくなったものの、もともと自分達がいた遊牧民世界です。
1931年満州事変の段階では、蒋介石は「安内攘外」という戦略を取っていました。日本軍には妥協し、国内の共産党を殲滅することを優先しました。この当時は日本VS中国ではなく、共産主義VS資本主義の構図の方が優先的だったんです。「安内」が示すように、共産党は基本的に暴力革命支持のテロリスト。国内でテロ活動を激化させ、中華民国政府と国内の中国人を危険に晒しました。
共産党軍は中華ソビエト共和国の中心地だった瑞金を放棄し、1934年~1936年まで1万2500㎞を徒歩で移動しました。長征と言います。かっこよく言ってますが、要するに敗戦、転戦です。ここで10万人の兵力を数千人まで減らしましたが、途中で開催された遵義会議などで毛沢東の指導権が確立されました。ここから巻き返すというのは驚異的ですね。
蒋介石の「安内」というのは支那エリアの安全で、中華民国の支配地域の安全性を確保してから対外的に当たる事を想定しています。満州国・日本軍と中華民国はお互い連絡を取り合いながら、大使館を設置し和協外交をしていました。外交権が分かれています。
しかし民族的な抗日の声が高まる中、国民党軍兵士も共産党との戦いに消極的になっていきました。1936年、張学良が蒋介石を監禁して説得しました。西安事件です。これにより国共合作が実現し、抗日戦線に当たりました。
この辺り、複雑です。蒋介石は共産党の方が嫌いなのですが、しぶしぶ妥協した形です。その証拠に張学良は官職を剥奪され10年の禁錮刑を宣告されました。
日中戦争がはじまると、和平交渉が裏で何回も試みられます。実際1941年に太平洋戦争が勃発するまでは日中両国は宣戦布告をしませんでした。「一部勢力の食い違いによる事故」としたかった。それは双方平和裏に決着をつけたい人達がいたこと、昭和天皇は開戦に反対だったこと、アメリカの中立法発動による経済制裁を日中双方避けたかったためです。
しかし現実ではとっくに泥沼の戦いは始まっていました。蒋介石英米と共に日本に宣戦布告。しかし蒋介石は局地的に戦っていながらも、全力で戦ってはいませんでした。日本軍とガチンコで戦って喜ぶのは共産党だからです。
正面衝突して消耗してくれたら、共産党軍の一人勝ち。自軍は消耗しないで後で有利に戦えます。当時の状況では日本軍が勝つか負けるかまだ分からない。自分にとって有利になるか不利になるか。そのあたりが分かっている蒋介石も内心複雑だったと思います。
実際蒋介石が本格的に日本軍と戦い始めたのは、サイパン陥落後です。ここが分岐点だった。サイパンからなら日本全土空爆で直接攻撃が可能になり、東京大空襲が始まることを意味するからです。実際静岡、横浜、博多、日本海側も含めて日本の主要首都は焼野原になりました。原子力爆弾の投下練習に「パンプキンボム」という練習用の爆弾投下も計画的に行われていました。そして1945年8月、長崎と広島に投下され、終戦(敗戦です)を迎えるのでした。
日本と中国は戦うべきではない。満州国を実質建国に導いた石原莞爾は日中の同盟関係を強く望んでいました。南下してくるソ連を満州でせき止める事ができれば日本にとっても、蒋介石にとっても有意義で、国内が安定統治でき、国力を蓄えれば欧米列強からアジアを守る事ができるという戦略でした。中国革命に自分でも参加していた北一輝も、「社会主義革命は帝国主義の段階を経ないと実現できない」という結論に至っています。欧米と対等に戦え、まずは国内が安全で自立してからでないと国内的な平等社会は作れない、ということですね。
英米と戦うだけで大変なことなのに、日本は最終的にABCD包囲網を打破するためにアメリカ、イギリス、中国、オランダと全面交戦しました。現在アメリカから見た呼称で太平洋戦争と呼んでいますが、それはサイパン、グアムなどの太平洋の島々が舞台の呼称です。当時日本は満州、中国、東南アジア、島嶼部というものすごく広域の戦線で開戦したため大東亜戦争と呼称していました。主要な戦闘地域としては面積の大半は中国と東南アジアだったのでこちらの方が妥当とも思います。
答え 3.盧溝橋事件
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