物部氏と蘇我氏の系譜
どうも。歴旅です。
今日は物部氏と蘇我氏について。
古代史で触れなければならない物部氏と蘇我氏です。
昔の事すぎて単語しかわからないですよね笑
しかしここは重要な歴史の転換点。
記録は少ないものの、内政、外交共に大きな変化があった時代でした。
仏教が伝来してきて、国として仏教を保護しようとする崇仏派の蘇我氏と、日本古来の神道を守ろうとする廃仏派の物部氏で対立し、争いが起きました。
後でも書きますが、これはとても不思議な争いなんです。なぜかというと、物部氏と蘇我氏は親戚だから。『先代旧事本紀』という平安時代に書かれた歴史書にはそのことが書かれています。物部氏に関することが詳しく書かれていることから、物部氏の子孫が書いたと考えられています。
ちなみにこの本は後世に書かれたことから「偽書」という人もいます。明確に偽書である、という本も存在しますが、ここでは本書は民間で書かれた歴史書と位置付けます。(稗史(はいし)と言います)。偽書と言われる理由の根拠は序文です。しかしこれは後から付け加えられていることが分かりました。序文のみ時代を混乱させるような記述があったものの、延喜4年(904年)の日本紀講筵(平安時代に日本書記の講義、研究を行った宮中行事)にも「『古事記』と『先代旧事本紀』はどちらが古いのか」という話題が出ていることから、製作者や制作時期を偽る要素はもともとなかったといえそうです。誰かが後で一部序文だけくっつけたのでしょう。そのままにしておいてくれたらよかったのに笑
いわゆる正史は国家が編纂したことから、正当な歴史書として機能しています。しかし、同時に政治や戦争の勝者によって書かれた歴史書でもあるので、本当の歴史を語っているのか?という点では100%真実というわけではありません。そのためいろんな角度から歴史を見るために、今回『先代旧事本紀』に書かれている歴史も交えながら、複眼的に時代を見てみたいと思います。
この『先代旧事本紀』は古事記や日本書紀と同じ物語が書かれている部分も多いですが、独自の個所もあります。特に物部氏、尾張氏の記述が多いこと、物部氏の祖神である饒速日(ニギハヤヒ)の天孫降臨の話が記載されています。日本書紀には瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天孫降臨し、東征の結果大和朝廷ができるというのが大筋の話となっていますが、それ以前に近畿にいた饒速日は瓊瓊杵尊よりも先に近畿で国づくりをしていた、という物語です。
これは『日本書紀』の神武天皇東征の物語をちゃんと読むとわかるのですが、そもそもヤマトに先にニギハヤヒが国を作っていたのが東征の前提になっています。つまり、いわゆる現在の天皇家よりも先にヤマトを治めていた。天孫降臨していたのは現在の宮崎県高千穂に降りたニニギノミコトだけではなかった。先に近畿地方で国づくりをしていたニギハヤヒが物部氏の祖先となっています。
そうなると藤原氏の天下になった後は、日本書記という正史を編纂するとともに、過去の正当性を葬り去りたいというニーズがあることが分かります。少なくとも、出生不明な藤原鎌足よりも、神話の時代からつながる系譜を持つ物部氏、蘇我氏は当時から正当性が高いことは明らかです。仮に神話がフィクションだったとしても、4~5世紀に天皇家の近くにいた有力者であることは変わりないのが実態です。
また、『古事記』によると物部氏のルーツは第八代孝元天皇の皇子、比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)に求められます。
古事記では伊迦賀色許売命(イカガシコメノミコト)の子供で、味師内宿禰(ウマシウチノスクネ)・建内宿禰(タケシウチノスクネ)の父親とあります。母親の伊迦賀色許売命は次の開化天皇(9代)の皇后にもなっています。正当な皇族ですね。
さらに、武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣で、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など古代の中央有力豪族の祖とされています。
ここから考えると、物部氏は古代天皇家の直系氏族であり、かつ蘇我氏はその中から分家し、天皇家を支えていた有力豪族だった、ということです。物部氏と蘇我氏は親戚関係にあり、蘇我氏の家系から生まれている聖徳太子もまた、物部氏とは親戚関係といえます。
さて、時代が下って奈良時代に入ると、百済から送られた仏像を巡り、蘇我稲目(そがのいなめ)を中心とする崇仏派と物部尾興(もののべのおこし)を中心とする廃仏派が争いました。仏教というと宗教的な話しかイメージがないかもしれませんが、古代における仏教は当時の最先端科学でした。寺を建てる建築技術、薬学、社会を治める政治学などを含み、大陸と対抗する上で学ぶ必要のあるものでした。信仰という点だけで見ると、既に八百万の神がいる日本で取り込む必要がない、というのが廃仏派の意見でした。最終的に丁未(ていび)の乱によって蘇我馬子が物部守屋と戦い、物部氏が衰退していきます。
ここで本当に蘇我氏の専横がどこまであったのか?という疑問があります。
というのは、いわゆる教科書的な話は、蘇我氏を滅ぼし後の天下を取った藤原氏による編纂だからです。『古事記』『日本書紀』は本居宣長など江戸時代からも研究されてきましたが、その頃は聖典とされ、また明治以降も批判的立場をとると不敬罪とされたことから、そもそもの当時の記録そのものに踏み込んで批判的に研究をし始めたのは戦後からになります。推古天皇のときに編纂された『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』も知られていますが、蘇我氏滅亡とともに焼失しています。意図的に燃やしたのでしょうか。これが残っていたら、正しい、正しくないも含めて日本書紀と照合したいところです笑
ではまた。
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