日本の歴史書

どうも。歴旅です。
今日はちょっと固めな話です
(いつも?笑)

そもそも歴史書って何なんでしょうか。
日本の古代の歴史書の成立経緯を見てみましょう。

 日本神話の事始めは『日本書紀』『古事記』に書かれています。神話が書かれているので史実ではない、と思う人もいるかもしれませんが、『日本書紀』については天皇が法で統治する律令制と当時に、日本の国の成り立ちを明らかにし、当時大国だった唐と対抗するために作られた歴史書であり、外交文書でもあります。

実際は漢文、日本人が書いた「和習」が残る漢文、万葉仮名を含み、和化漢文という変形した漢文の3形態で記載されている性質を持っています。
①中国人(帰化人)②留学経験者 ③海外に行ったことない日本人
みたいな感じで複数の人が書いているんですね。

『古事記』が大和言葉を漢字の当て字で書いたのに対し、『日本書紀』は漢文で書かれているのもその特徴の一つです。「日本神話はフィクションだから信じられない」というなら『旧約聖書』の方がさらに成り立ちも書き手も不透明で信じるに値しないことになります。神話が仮に虚構の話であっても、大和民族が全員共有すべき物語として後世に伝えたい内容が含まれているんですね。

 ちなみに、『日本書紀』以前にも歴史書は存在していました。『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』など蘇我馬子が編纂事業に関わり、620年頃にまとめていました。こうした蘇我氏が保有していた日本書紀以前の天皇家の歴史書があったのですが、蘇我氏滅亡とともに屋敷で焼失しました。この段階で文献としての過去の歴史が焼失しています。隋と外交しているときに既に聖徳太子と蘇我馬子は歴史の重要性に気づき、編纂していたんですね。それが焼失。これはかなり痛いです。『日本書紀』はいらなかったかも知れない。

 また、『古事記』も『日本書記』と同じように考えている人もいるかと思いますが、正確には古事記は「出雲国風土記」という性格を持っています。当時日本は一つの国としてまとまっていたのではなく、各地域に国がありました。出雲国、播磨国、丹波国、常陸国など、『日本書紀』以外にも風土記が残されています。これらはその土地独自の風俗、習慣、歴史、地理を残した記録書といえます。そのため、日本書紀は各地の記録をまとめて日本全体としてまとめていますが、同じ物語が書かれていながらも、記述が異なる部分が存在します。例えば出雲国譲りの話では、『古事記』の方が出雲側の立場を詳述しているのに対し、『日本書紀』では同じ物語を扱いながら省略しています。『風土記』は詳細にみていくと、中央政権であった大和王朝の思惑と異なる歴史を残しています。
風土記以外も『上宮聖徳法王帝説』など様々な文献記録がありました。
しかし日本書記は意外とこうした記録に書かれている内容を消しています。

 ちなみに、「日本書紀」は「日本・書紀」ではありません。「日本書・紀」です。これは中国の歴史のに習い、紀伝体を取ろうとしたためです。中国の歴史書は構成として本紀・列伝・表・志を備えています。

本紀:工程の事績を記述
列伝:功臣や主要人物の伝記
表 :年表部分
志 :分野別の諸制度や地方の地理書を記述

この名前はのちの歴史書である『続日本紀』『日本後紀』が日本紀の名前を取っていることからもわかります。当初は『日本書・紀』『日本書・列伝』『日本書・志』を作る構想があったのだと思います。しかしその完成を見ずに、全体の一部である帝王本紀部分のみが完成し『日本書紀』ができたのではと考えられています。

『日本書紀』を編纂しようとした当初は、これらをすべてまとめる大掛かりな編纂事業であったと推測します。現在残る『風土記』はこの志に当たる部分の地理書として編纂しようとした痕跡があり、中央から派遣した役人と現地の役人との間でひと悶着ありながら書き上げたものと推測します。歴史学者坂本太郎は天武天皇10年(681年)に開始し、最終的には720年に完成するまで、40年近くの月日が経ったと言っています。

なぜ日本書記はまとまらなかったのか?
 ここからは私の推測ですが、大和朝廷は日本の隅々まで統治できていなかったからではないか、と思います。実際そうだったと思います。
もし中央から派遣した役人が大和朝廷の影響範囲内にある各地方の国々を統治できていたのであれば、何らかの形で地理書を収集できていたかと思います。しかし思ったよりも集まらなかった。また、40年という膨大な時間がかかっていますが、内容もまとまらなかったのではないかと思います。先ほどの『日本書紀』以前の歴史書が消失したとはいえ、620年に編纂されていた歴史を知っていた人達は当時も数多くいたと思います。しかし先の物部氏・蘇我氏からの天皇家の血筋の藤原シフトと時を同じくして編纂された日本の「正史」は正しく日本の歴史を記録しようとしたのでしょうか?文字を使い始めたころで漢字表記の何が正しいかを検討しながら記録を進めていったこと、記録することそのものも大変な膨大な量ということもありますが、そもそもの歴史観の食い違いで当時も議論が進まなかったのではないでしょうか。あるいは、偏った「正史」を後世に残したくない、と思ってみんな抵抗した。

 5・6世紀ごろは天皇という呼称はなく、王(きみ)や大王(おおきみ)という呼称でした。
唐の則天武后がクーデターで天下を取った時に、その時に使ていた呼称にあやかって天皇(当時はてんこう)と名乗りました。
「うちも天皇ってのがいて日本をまとめているんだよ。あんたのクーデター起こして天下簒奪したけど、うちもちゃんと国って認めてね。」といったかはわかりませんが、絶妙なタイミングで遣唐使が外交史に行っています。
これで独立が保てていたのであればGOOD JOB!!

 ちょっと時代をさかのぼりますが、4・5世紀は特に大和朝廷と呼ぶべき政権はなかったとも言えますし、天皇も全国各地にいる豪族のone of themでした。古墳は全国に16万基もあり、現在のコンビニよりも多くあります。大仙陵古墳は天皇の墓と言われ、世界最大級でクフ王ピラミッドを凌ぐ規模ですが、
埼玉県稲荷山古墳でも大規模な古墳が存在し、群馬県太田市の天神山古墳に至っては東日本最大の古墳で、近畿地方を除くと3位の規模(近畿は大型古墳が集中しており全国ランキングでは30位以内)です。

■大仙陵古墳 
■稲荷山古墳(埼玉県行田市) 
■天神山古墳(群馬県太田市)


 これらの古墳は時代が100~200年異なっていますが、その後も地方豪族の勢力が維持されていたとすると、各地の豪族が強すぎて、完全に従わせることはできていなかったのではないかと思います。
史料が少なく不明なことが多い古代史ですが、

・何が正しいか
・どんな意図があるのか
・そのあとどんな結果だったのか
・誰が何を意図して、どうなったのか?
を考えると、そこには意外と普通の人間の営みが見え、同時に様々な社会的要因が見えてきますね。

古代から日本には現人神思想がありました。それは他の地域の神社でも残る風習からわかります。その中で一番人気だったのがヤマトの大王だったのではないでしょうか。まだよちよち歩きだった古代国家の中、多くは他の有力豪族に頼りながら国をまとめていったのですが、様々な苦労が見て取れます。

 っていうか、「初めての歴史書をまとめた!!」みたいなこと言っているけど、聖徳太子の時代に既に作られているじゃん。
で、全部燃えてるじゃん!
 仮に蘇我馬子と聖徳太子が「中国の属国です」なんて歴史書編纂していたんだったら、燃やしてよかったんだけど、隋の煬帝を怒らせた聖徳太子の話を考えるとそういうこともなさそうですね。

 新しい史料発見されないかなぁ。真実が知りたい!

Uncategorized

Posted by rekitabipapa