地震で変わった日本史 天正大地震③ 徳川幕府を生んだ大地震

どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。

地震と言いながら前置き長いです笑
織田家は嫡男信忠が亡くなったことで、内輪もめが始まります。

孫三法師(さんぼうし)ー豊臣秀吉
三男信孝(のぶたか) ―柴田勝家
次男信雄(のぶかつ) ―徳川家康

こんな構造です。秀吉は幼い三法師を担ぐことで実権を握ろうとします。それに反発した重臣筆頭の柴田勝家が反目。

秀吉は信長の葬儀を執り行い、勝家を破り、信長の実質的後継者の地位を着々と固めていきました。勝家は賤ケ岳の戦いで秀吉と戦い敗れます。

一方、面白くないのは信長の次男信雄です。 信雄は次男なのに柴田勝家に後継者に擁立されなかったように、出来が悪いと評判でした。
「三介殿のなさること」という言葉があり、言葉には三介殿がしたことだから仕方がない、という諦めと蔑みが込められた言葉が語られていました。
( 三介とは信雄の通称です)

要するにアホな上にいつもやらかすしょうもない奴なのです。
その後彼がまた重要な局面でやらかします。

まあいくら不出来でも、信雄自身は信長の次男という誇りがあり、秀吉を織田家の家臣、 信長の草履取り上がりだと見下し、尚且つ自分の上に立つことが許せませんでした。 プライドだけで実力のない単なる迷惑な信雄。
しかし信長の次男というだけで日本史を動かすことになってしまいました。

信長死後2年、天正十二年(1584)に信雄は秀吉に合戦を挑みます。ここで、助けを求めたのが信長の同盟者だった徳川家康です。