地震で変わった日本史 天正大地震④ 徳川幕府を生んだ大地震

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前回の続きです。
信雄が頼った時、家康は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃という東海、甲信を支配下に置く大大名でした。めちゃ広範囲ですね。長篠の合戦で武田信玄も倒れ、領土を広げています。
信雄は尾張、伊勢、伊賀の大部分を領有していましたから、二人が組めば秀吉といえど侮れない敵です。

こうして信雄、家康連合軍は秀吉と対決します。
1584年3月のことでした。
 柴田勝家を破ってから秀吉は日の出の勢いで勢力を拡大、信雄、家康支配下の領国を除く信長の遺領をほぼ勢力下に置き、 総勢12万の大軍を動員。 一方、信雄、家康連合軍は3万でした。規模は4倍差。大きいですね。
兵力の劣勢を補うため、家康と信雄は尾張の小牧山城に籠城、秀吉の大軍を迎えます。

この辺り、実は家康の評価で重要なところです。
天下分け目の関ヶ原、その後の大坂冬の陣、夏の陣で徳川幕府ができていますが、家康自身が戦い天下人に押し上げたのは実はこの小牧長久手の戦いと言われています。

幕末期、勤皇の志士の間でベストセラーになった頼山陽の『日本外史』という本があるのですが、
「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ヶ原にあり、関ヶ原にあらずして小牧にあり」と述べています。
 家康の天下取りは、秀吉との唯一の合戦、小牧・長久手の戦いにあると山陽は評したのです。
秀吉と直接合戦をしたのはこの一戦で、残りは秀吉死後に趨勢が決まった後に取りまとめていったとも言えます。
小牧長久手の戦い。知られていると言えば知られていますが、そこまで重要性がある戦いとは語られていません。意外ですね。