地震で変わった日本史 元禄宝永大地震②
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元禄関東地震は相模トラフが震源地でしたが、宝永大地震の震源地は南海トラフ全域でした。 四年という短い期間に日本列島を襲った巨大地震の実態、幕府をはじめとする為政者の対応、 大災害に見舞われた庶民について記しています。
元禄、宝永の大地震が起きた時の為政者は徳川幕府五代将軍綱吉、「生類憐みの令」で有名ですね。 動物、嬰児、傷病人保護を目的とした法令で、特に綱吉の干支である犬が大切にされたことから、彼は犬公方と呼ばれています。お犬様。
元禄関東地震は綱吉のお膝元である江戸を始め、武蔵、安房、上総、下総、相模、伊豆、甲斐という 関東の広範囲に亘って大きな被害をもたらしました。 江戸で、いや、日本で最も頑強な造りであったであろう江戸城の櫓や多くの建物が崩壊、大手門は堀の水が溢れ返り、 最大の番所である百人屋敷も潰れました。 江戸城ですらこんな有様ですから市中の状況たるや悲惨を極めます。
江戸湾に津波が押し寄せ、品川の浜に避難した人々が呑まれてしまいました。 津波は隅田川を遡上し、綱吉の側近で幕府最高の実力者柳沢吉保の下屋敷、六義園も襲います。 六義園は今も名庭園で有名ですが、この時の塩害により庭内の松が悉く枯れてしまい、復旧するのに30年を要したそうです。
津波は房総半島北東端の犬吠岬から伊豆半島南端の下田に至る一帯を襲います。 安房小湊近辺で570軒、御宿で440軒、下田で500軒もの人家が流されてしまいました。
本当にすさまじい。甚大な被害です。東日本大震災バリ。
ほとんどの日本人にとって遠い記憶の彼方だと思いますが、江戸時代にもこんな地震が東京をクリーンヒットしていたんです。
元禄時代は比較的バブリーな時代でした。しかしここから経済が悪化していきます。そのきかっけとして、元禄宝永の大地震はトリガーになっていますね。江戸時代はある意味ずっと右肩下がりだった事が経済的視点からわかっていますが、徳川家が鎖国して閉鎖的だったから、とか階級社会で富を独占していたから、ということよりも、意外と自然災害のインパクトが大きかったからだと思います。
江戸は3年に1回大火に見舞われていました。様々な金融の仕組みを生み出し、農地も開墾していって発展していきましたが、災害の多さを考えると右肩上がりにはならなかったのでしょう。
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