条坊制から考える古代の都について①

どうも。歴旅です。
はい。お題いただきました。

今回は条坊制について。
これってなにか、っていうと、いわゆる京都の都が賽の目状になっている、っていうやつですね。
単語はマニアックですが、中身はシンプルです。
そこで古代の都の

テーマ① 都の作り方
テーマ② 都の変遷

について2回に分けて書きます。
まずは都の作り方からみてみましょう。

歴史って言いながら、今回はかなり現代的なことまで、地理空間を通じた普遍的な話をしたいと思います。(「歴史」は昨日までのすべてを包摂しているので笑)

■都市つくりは地理空間×社会機能
問題では条坊制は中国の都市から取り入れたとあります。その通りだと思いますが、そもそものところ、街づくりの形状は自然空間に左右されます。
中国って、割とどこに行ってもダーーーーっと広大な平原が続く地形が多いんですね。(もちろん港湾都市や山の街もありますよ)
とても平らで広いので、加工しやすいです。いわゆる都市は大人口を抱えなければならないので、広さのある場所で都市を構えます。中国の場合は「都市=城」です。ここが日本の「都市」のイメージと全く違います。
漫画で『キングダム』を見ている方はイメージしやすいと思いますが、都市の周りを全て城壁がかこっています。
なぜかというと、中国は北から遊牧民族が攻めてきます。馬で押し寄せてくるのですが、城壁があるといったん守れます。「万里の長城」も、日本の天守閣のような城とイメージはだいぶ違いますが、中を守るという意味での城壁です。
この城で囲まれているから「国」になります。王様を守る城壁ですね。特殊漢字で「囻」(国構えに民)というのもあります。これは中華民国を作った孫文が好んだ「くに」です。

■都市を作るのに必要な自然空間
脱線しましたが、都市を作るには、まずは自然空間が重要です。
まず水が必要です。川が近くになければ飲み水がなくなり、下水機能や生活に必要な水の供給ができません。大人数を養うために、井戸水どころか河川が必要になります。都市の近郊農業にも水が必要ですね。どんな所でも、水は人間の生命線です。

次に森です。古代では木が燃料になります。都市を作る際に、家を建てるためにも建材が必要です。そのため森がなければ都市建設ができません。近くに森か山がある必要があります。

都市を設計するには、どこでもいいわけではなく、地理的条件を満たしている必要があります。

■社会機能をデザインする
次に都市空間の社会的機能です。美的景観などもここに含まれてきます。現代でも山が見えたり、スカイツリーが見えた方がいいですよね。それで家の価格が変わります。景色がいい方が嬉しい。土地によって風景を考え、建物のデザインや配置を考える。ランドスケープといいますが、古代人もこの辺りは変わりません。
ここから条坊制のメリット・デメリットを考えたいと思います。

メリット
・見通しがよい
・防犯性が高い(隠れにくい)
・区画が整理されていて街の機能が明確
・官僚、寺関係者など職能による居住区域を分けられる
・城門から宮殿までの広大さが演出可能(立派に見える)


デメリット
・同じ景観に見える
・攻撃されたときに弱い
・地形がデコボコだと建築が難しい

日本で条坊制を採用した都市設計は、唐の長安をまねたというのが妥当かと思います。
日本では平原が続いている地形はあまりなく、基本的には起伏がある土地が多いです。また、戦国時代のお城を見るとわかりますが、山城だったり、平地でも街の道を意図的にグネグネ迂回させ、攻め込まれたときに方角が分からなくなるように道を斜めにするなどの工夫が見られます。
そう考えると、条坊制の都市設計は守りの機能を捨てている、というのが前提になります。
 それ以上に必要だったこと、というのは天皇の権威化でしょう。
白村江の戦いに負けた天智天皇以降、日本は大唐帝国に対抗し、侵略されない国になるために腐心してきました。そのために律令国家を目指し、歴史書を編纂しました。そして都市を設計した。ここで重要なのは(本来守りも重要だと思いますが)、唐から人が来た時に一流の国家である、ということを示す都市建設です。なんかすごそうだから攻めないようにしよう、と思わせるところが重要です。


■科学の代わりに重要だった風水・陰陽道
これまで機能面から都市設計について説明してきましたが、もう一つ当時の支配思想として重要なのが風水や陰陽道など呪いの世界です。

現代と異なり、当時は「たたり」などが真面目に信じられていた時代でした。そのため寺は国家鎮護仏教として活躍し、権力を持っていました。

長安の建設をまねた平安京ですが、まず城郭がありません。これは先に述べた中国大陸と日本の環境の違いです。遊牧民族が襲ってくることはありませんし、敵の捕虜を閉じ込めておく、という機能も必要なかったので城門しか作りませんでした。合理的です。
また、条坊制は『周礼』という書物に書かれている都城建築法で、
・9里方形であること
・南北9条、東西9坊
・幅が車のわだちの9倍
・中央に宮室、その左右に宗廟と社稷を配置する
・宮室の南には朝廷、北には市を配置する
というような作りでした。日本では宗廟や社稷(倉庫)は起きませんでしたが、現実的に要不要は判別したようです。この辺日本は柔軟です。
また、朱雀門というような名前が示すように「四神相応」という考え方があったように見受けられます。
朱雀、玄武、白虎、青龍という神を配置することで災いを避けるという考えです。

平安京では、具体的には青龍=鴨川、白虎=山陰道、朱雀=巨椋池、玄武=船岡山の対応付けが考えられているそうですが、こうしたものは定説としてはなかなか確定しません。
確定的な建設意図はわかりませんが、当時は「方違え」などして方角の縁起をやたら重視していた時代なので、道に対する縁起の良し悪しの配慮はしていたと思います。
そういう意味では、条坊制は中国から借用してきたものの、日本の現実に合わせて変化していったものなのかもしれませんね。

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Posted by rekitabipapa