地震で変わった日本史 安政大地震②
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。
幕末の大地震。続きです。
破壊消火とは、時代劇でお馴染みの火消しが鳶口などを使って火災現場周辺の建物を引き倒して破壊し、延焼を防ぐ消火方法です。 庶民が暮らす長屋は、火消しが引き倒しやすいように柱の太さが二寸(約五センチ)で作られていたそうです。 つまり、火事を前提とした安普請が地震に災いしたのでした。火事で簡単に引っ張って倒せるように柱が細くなっていたため、地震で支えられる強度になっていなかったのです。
震度6では持たなかったでしょう。
倒壊家屋が多かったのは江戸の町が形成されるに従って出来た本所、深川、浅草、日比谷などですが、 地震によって発生した火災は江戸全域に及び、30箇所を超える地域が火事になりました。 町奉行所の調査では2㎦が焼失したそうです。 特に被害甚大だったのは吉原で、遊女と客1,000人が焼死したそうです。
遊郭が建ち並ぶ吉原は三谷田圃を埋め立てて造られました。周囲を堀が巡り、 出入り口である大門の他にも緊急時に備えて反り橋がいくつか設けられていました。 地震が発生した時、吉原は営業の最中、たちまち火事が起き遊女と客は炎に包まれました。 逃げようと人々は大門に殺到し、廓内は大混乱します。反り橋は遊女の逃亡を防ぐ為、上げられたままでした。加えて地震で歪んでしまって下ろすことができず、人々が大門に集中したことが被害を大きくしたそうです。
狭い空間であった町人地と違い広々とした武家地でしたが、被害がなかったわけではありません。 有名なのは小石川にあった水戸徳川家上屋敷でした。ここは大きな被害を受けました。
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