地震で変わった日本史 戦時中の大地震④

どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。

東南海地震、三河地震が起きたのは昭和19年(1944)12月と翌年の1月です。 東条内閣が絶対国防圏と規定したサイパン島は陥落、B29による本格的本土空襲が始まっていました。

 静岡県、愛知県等を襲った地震は学童疎開をしていた子供たちを含む大勢の人間が犠牲になり、数多の家屋が倒壊しました。 軍需工場が大きな被害を受けました。

 国家存亡の危機の最中、戦意低下を招きかねず、アメリカに知られることの不利を考慮し、軍部は2つの地震を隠蔽しました。 ミッドウェー海戦敗北以来、軍部による情報の隠蔽、偽情報発表は常態化しています。 情報隠蔽により、救援物資は大幅に制限され、復興の足枷となりました。 戦争という巨大な人災が地震という天災を覆いつくしてしまったのです。

 その後、日本国内のあちらこちらが焼け野原と化し、坂道を転げ落ちるように敗戦を迎えます。 本土空襲での犠牲者は三河地震の後から飛躍的に増加しました。 軍部が二つの地震に真摯に向き合っていたなら、 敗戦は免れなかったとしても犠牲者の数は大幅に食い止められたのではないでしょうか。そんな余裕もなかったのか。。

 災害救助よりも戦争継続を優先した軍部の姿勢が日本の多くの都市を焦土にしました。 今日、災害が発生したら日本中、あるいは、世界中から救援の手が差し伸べられます。日本も災害国への支援を惜しみません。 こうした助け合いの状況が永遠に続くよう、鳥取、東南海、三河地震の犠牲者に祈りたいと思います。