条坊制から考える古代の都について②
こんばんは。
歴旅です。
今日もぷらりと歴史旅。
前回に引き続き、条坊制から考える古代の都について今回は古代の遷都について考えてみたいと思います。
今回は、なんで遷都するの?という疑問についてです。
710年 なんと素敵な平城京。
794年 鳴くようぐいす平安京。
年号は知っていても、なんで遷都したのか?というのを知っている人は少ないかもしれません。(明確な文献もありません)
よく考えると不思議です。多大に労力がかかる遷都はあまりやりたいとは思いませんね。やるとすれば、のっぴきならない理由があったのでしょう。
理由自体はいろいろがありますが、現代の理屈で考えられるものとは異なる理由もあります。
奈良時代から平安時代に至るまで、複数回の遷都をしています。それぞれ異なる理由がありますが、いくつか事例にみてみましょう。
飛鳥板蓋宮 643年
難波長柄豊崎宮
飛鳥宮
近江大津宮
飛鳥浄御原宮
藤原京
平城京
山背恭仁京
紫香楽京
難波京
平城京
長岡京
平安京 794年
飛鳥板蓋宮から150年くらいの間にめっちゃ遷都してる!!!
もし自分が天皇だったら、やりたいですか??
それでも遷都するならなんででしょう?
私がこの時代の民衆だったら、正直ついていくの嫌になるかもしれませんね。。。10年に1回都が変わっていたら、ついていくの大変です。逆にいえば、権力闘争が絡んでいたのであればそれが狙いかもしれません。実際は平城京30年のような安定した時期もあれば、1年というようなド短期もあったようです。私も人生で20回弱引っ越しましたが、まあ落ち着かないです笑
行政制度を落ち着かせたい。定着させたい。
人材を育成したい。人民を定着させたい。
生産や経済力を上げたい。
こうした欲求があれば、頻繁に遷都したいとは思わないはずです。
それでも引っ越さなければならない理由は何だったんでしょうか?
毎回理由は異なるかもしれませんが、要因を見ていきましょう。
■自然環境の変化
①でも展開しましたが、都市が人口を維持できるのは立地と環境の影響が大きいです。特に水とエネルギーがなければ人口を維持することができないのです。奈良に都があるという状況は割と長く続いたのですが、山の木々が減って来たという事情があります。また、大きい川がないので水が澱んできて疫病が蔓延する、という関係もあったかと思います。人口増加理由による遷都は、エネルギー枯渇の解決とともに、衛生生活環境改善の意図があります。
人口が増える→木を切って家を建てる→人数分エネルギーが必要→木を切る→森の木がなくなる→保水力がなくなり洪水が起きる→流されて死ぬ。食料なくなる。→下水も混じって衛生環境悪化→疫病発生→人心乱れる
というサイクルが発生するともはや人間の手に負えなくなります。昔も伝染病による大量死がありましたが、実はこんなメカニズムで発生していたかもしれませんね。
こうなると遷都が必要です。奈良→京都という遷都はこうしたことも一つ理由として挙げられます。
■権力闘争(皇室外部)
平安京の遷都理由で言われるのが、権力を持った寺から政治を引き離すため、奈良から移動した説です。これは割と妥当な理由です。
当時南都六宗という仏教研究団体が力を持ち、政治にも干渉してきたため、これらから離すという目的がありました。孝謙天皇(女性)の寵愛を受けた道鏡という僧侶の登場によってピークに達します。寵愛を受けすぎていたところに、宇佐八幡宮神託事件が起きます。
「道鏡を天皇にすれば天下が治まる」なんていう神託を受けて、天皇になる可能性が出てきたところで「さすがにやべぇ」ということで排除されます。仏教僧が皇室に入り込むくらい、危機的状況が起きていました。
聖武天皇が752年奈良の大仏を建立してから寺に権力が集まりすぎました。とにかく仏教全体から政治を引き離したい。地理的に距離ができると密に通えなくなるため、遷都は南都六宗の仏教勢力を弱める効果がありました。
■権力闘争(皇室内部)
権力闘争は天皇家内部が本家本丸です。
中大兄皇子が近江大津宮に遷都したときは、孝徳天皇を置きざりにしたまま、都市機能を全部移動させてしまいました。わりとひどいですよね。孝徳天皇は機能しなくなり、失意のうちに崩御します。
一方地理的要因の妥当性もありました。
斉明天皇と中大兄皇子が自ら九州まで出向いて朝鮮半島の百済再興のために唐と戦った白村江の戦い。そんなことまでして戦う?という大いに疑問、且つ中大兄皇子のスタンドプレーのような戦いだったのですが、結果大敗を喫します。
中央に戻った中大兄皇子がやったことは瀬戸内海の内側に水城(みずき)を作ったこと、そして遷都です。
全部1人プレーな気がしますが…
百済復興のために海外大遠征。大敗してやべー唐が攻めてくる!となって遷都。遷都の理由は妥当だけど、原因は自分じゃん…
と民衆は思ったからこその後段の放火なんだと思いますが、なんとしてでも百済を復興させねば!というトップにはトップの事情があったのでしょう。理由はまだ解き明かせてません。
さて、地図をよく見ると、中国から日本に海で入ってこようとすると、瀬戸内海を通ってスーッと大阪まではいってこれてしまいます。
難波は仁徳天皇、欽明天皇など多くの宮があるところでした。しかし大阪湾は当時は湿地帯。
大坂の銀座といわれる梅田も、もともとの地名は「埋田(うめだ)」です。江戸時代に湿地帯を田んぼとして開墾しました。
大唐帝国の水軍と戦って大敗北。逃げかえったものの、難波に都があると唐軍が船で瀬戸内海をスーッと入ってくる可能性があります。そんなところに都があるとまずい。そこで内陸の近江に遷都した、という説です。近江大津宮では、孝徳天皇が崩御した後、斉明天皇が重祚(ちょうそ:もう一度天皇に就任すること))。中大兄皇子と仲いいですね。母子ですからね。中大兄皇子は乙巳の変で政敵蘇我入鹿を殺すと蘇我氏を滅亡させます。他にも天皇候補の皇太子がいる中、事件後すぐに就任すると反発すると思ったのか、孝徳天皇を立てましたが、孝徳天皇とも意見が割れたのでしょう。天皇を残して遷都し、病死すると母親の斉明天皇が再度就任し、その後天智天皇として就任しています。
この斉明天皇と天智天皇時代、かなり民衆は不満があり、近江大津宮では昼夜を問わず不審火が続いたそうです。
権力闘争で無理やり遷都。
さらに民衆に支持されず新都は放火されまくり。
うーん。無理矢理遷都した側としては、警察を配置して、街の作りは条坊制にして放火犯すぐ捕まえられるようにしたいですね笑
こうした側面もあります。
遷都理由、途中なんですが長くなったのでまた次回!
すぐ長くなっちゃいますね笑
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