平成28開成中社会①より 関東の歴史⑥ 貴族VS武士じゃない?
問題です。源氏の発生とされる人物は誰でしょう。
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
中学受験、御三家レベルの社会を楽しく学びましょう。
今日は平安時代から。日本の開拓は大和朝廷ができてから、西から東へと進められました。『古事記』には三韓征伐として何回も朝鮮半島に渡った記録があるのに、越の国(現在の富山、新潟県など北越地方)を超えて北の情報は激減します。北海道にいる民族粛慎(みしはせ)の記録などほんの少し触れられる程度です。当時は山を越える方がはるかに難しく、山を越えると別の国だったんですね。現在でも福岡県は博多弁、小倉弁、筑豊弁と3つ方言がありますが、山を越えると別文化圏だったことが分かります。
さて。本当は関東にも東北にも遥か昔からの歴史と文化があるのですが、いったん大和朝廷成立の記録を中心にみていきますと、関東は京の都からすると蝦夷の住んでいる未開の地だった。もう訳が分からない。
というのは言い過ぎかもしれませんが、要するに別文化圏で未知の領域でした。
そんなところから、軍隊を派遣し、役人を派遣し、戸籍管理をし、田畑を耕させ、年貢を納めさせる。この徴税が国家として重要な機能になります。
実際は暫く(というかわりと長い時期)うまくいかないのですが、平安時代には北海道以外の全国に広がっていきました。
こうした一連の流れで、中央にいた貴族(公家)が官位を受けて、地方を統治するために赴任していくのです。こうなっていくと中央では文章を扱い行政だけやっていればいいのですが、地方ではそうもいきません。そもそも文章読めない人達を相手に、いうこと聞かせたり技術を教えたり?、なによりも税金を巻き上げなければなりません。この過程で軍事機能を持つ武士が形成されて行きました。
初めの武士というのは中央の貴族が軍事集団化していったものなんですね。
だから「貴族であり且つ武士」というのが正しい姿。
そして武士も官位があった。さっきの流れから行くと、朝廷から官位を受けて統治を任されていないとその土地を統治する権限がないんです。だから官位は重要です。しかしこのつけ方が問題です。
もともと任官は領地の所有権を示すものでした。そのため鎌倉時代以前は朝廷が任官し、その土地を受領した者に支配権がありました。だから平安末期の武士=貴族 とも言えました。
それを源頼朝の許可がないと受領できないようにした。鎌倉時代が武士の世になった、というのは朝廷ではなく鎌倉幕府が任命権を実質持ったからです。それでも任官という意味は生きていた。
時代が下って南北朝時代になると、それぞれの陣営が仲間を増やすために勝手に受領するようになった。
戦国時代に至っては幕府の権力が衰え直接朝廷に任官を求める者や買官に近いものがでました。例えば三河の支配を正当化するために、今川も徳川も「三河守」を名乗りました。
「|織田上総介信長《織田かずさのすけのぶなが》」に至っては勝手に名乗っています。千葉を統治しているのでもないんです。
なんとなく貴族VS武士という対立構造が一般的イメージですが、そうではないんですね。この切口が分かると、源平合戦の本質が見えてきます笑
朝廷貴族化した平家VS坂東武者の構図であり、坂東武者は平氏が多く含まれていたので実質は平平合戦でした。
答え:源経基
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