開成中対応 東京問題② 江戸城付近
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
中学受験、御三家レベルの社会を楽しく学びましょう。
江戸城近辺をぶらりと散歩してみましょう。
よく知っている地名ばかりかと思います。
でもその由来って、なかなか知らないですよね。
■旗本の配置
九段下近くから北上すると、番町と呼ばれる旗本が住んでいたエリアです。
旗本って何?と思うかもしれませんが、徳川将軍家直属の家臣団のうち、石高が1万石未満のうち儀式など将軍が出席する席に参列できる家格を持つ者でした。結構偉くて、旗本はいわゆる「殿様」と呼ばれる立場の、徳川近衛兵でした。
なぜこの立地なのか?というと江戸城の西側は台地の続きで、攻めやすい土地でした。江戸城の周りは千鳥ヶ淵、桜田堀で守っています。しかしその外が弱かったため、信頼できる旗本を西側に配置し、守りを固めたのでした。
■日比谷公園
現在ではだいぶ都心ですが、かつてはなんと海でした!
日比谷入り江が入り込み、江戸前島と呼ばれる土地と分断していました。
そのため徳川家康が埋め立てました。
川が入り込んでいたため、日比谷掘を作り、人口の排水路を作成して川の水を排水しました。東京を歩くと、「堀」と呼ばれる地形が多くないですか?これは松江の城下町を参考にしたそうです。堀が多いと城の守りを考えてもよいですね。
しかし外様大名の大名屋敷がここに配置されます。
排水の悪い、住みづらい嫌なところに住まわせました。。。笑
蛇足ですが、徳川家康はけっこう嫌がらせ、生殺ししています。織田信長の織田家も、豊臣秀吉の木下家も、超縮小されて存続、生殺しで徳川時代を生きました(秀吉は一度天下獲ったにもかかわらず木下家に降格。。)
■江戸前島
新橋から入り込み、銀座当たりが前島の中心になります。
家康が城下町を作る上で重視した場所です。京橋、日本橋と続きます。
ここを一大商業地域にしました。今も続いていますね。徳川家康、すごいです笑
銀座の大通りを見ると、車道はけっこう広いですね。ここをメインストリートにしました。パレードもやる江戸の中心地でした。江戸時代には遠くに富士山も見えたようです。日本一の目抜き通りとして発展しました。
水はけのいい高地を道にしたため、曲がりながら東京駅方面へ向かいます。
この土地、すごく重要で明治以降も鉄道と都市設計に関わってきます。
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