平成27年桜蔭中社会①より 文化問題⑥大塩平八郎の乱

5月 5, 2023

どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
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本日は幕末のちょっと手前の江戸時代。幕府が借金だらけ、外国船も回りにうようよしていて対応に苦慮していた頃です。

大塩平八郎大坂町奉行をしていた儒学者です。
真面目な研究者肌の幕府の役人ですね。同じ奉行の汚職を内部告発したり、破戒僧、切支丹摘発などしていて腐敗した幕府と社会の取締りをビシバシやってました。

彼は儒学者だったのですが、陽明学を学び知行合一を旨としていました。
そんな中、1833年天保の大飢饉がが始まります。当初は大塩を顧問のように扱っていた矢部定謙、内山彦次郎という経済専門家がいたため無事切り抜けました。しかし飢饉が続いた1837年には公認の跡部良弼が暴政を敷きます。
無理やり買い米に走り江戸に送り、豪商が米を買い占めたため京都は餓死者で溢れました。窮乏者が大阪に流れ治安悪化。この状況に大塩平八郎は心を痛め、幕府の役人でありながら幕府に反感を募らせます。
民衆の窮乏と幕府の失政、豪商の自己利益優先対応に反発。この頃は奥羽地方で10万人が餓死。大塩はひそかに檄文を書き、印刷させました。そして打ちこわしの鎮圧と称して砲術を中心とした軍事九連を開始しました。
1837年、ついに大塩平八郎の乱を起こします。蔵書を売り払い、おカネを窮民に分け与えました。しかし密告によって大坂町奉行所にばれ、蜂起は実行したものの1日で終了。乱による火災は1万世帯、大阪の1/5が焼けたといわれています。

かなりまじめな幕府の役人なのに、だからこそ幕府の腐敗が許せなかったのでしょう。
明治維新の31年前の出来事。彼の意志が吉田松陰に引き継がれていきます。当時禁書となった大塩平八郎の『洗心洞箚記せんしんどうさっき』。吉田松陰も西郷隆盛も禁書なのに持っていました。維新志士の心を動かした人物とも言えます。