2022年7月8日 近現代政治事件➆ 犬養毅
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問題です。犬養毅が死んだときの事件は何と呼ばれるでしょうか。
犬養毅は岡山出身。庭瀬藩郷士でした。慶応門下生でもあります。
もともと『郵便報知新聞』で記者をしていました。原敬と同じですね。彼は西南戦争の従軍記者として名を上げましたが、彼が抜刀隊を取り上げ元会津藩士が「戊辰の仇!」と叫びながら突撃した記事を書き有名になりました。ちなみに部所属の記録が警察抜刀隊に残っていますが、大半が薩摩藩士なのでウソ記事です。
軍閥、財閥に対しては批判的立場でした。薩長派閥以外はそうなりますね。
彼は東亜同文会にも所属しており、頭山満やガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される人物となっていました。彼自身は政党政治の憲政主義で議会で議論するスタイルを作り出したいと尽力していました。
そんな政治家でしたが、彼は一・一五事件で暗殺されます。この頃ロンドン軍縮条約の締結問題が起こっていました。これは浜口内閣が締結し、全権大使だったのは若槻礼次郎でした。若槻内閣も誕生していたのですが内閣が分裂して1年足らずで総理を辞任していました。この統帥権干犯問題でむしろ戦っていたのは犬養毅だったのですが、怒りの矛先を失った青年将校は現役内閣を標的としました。
ピストルで撃たれた後、「呼んで来い、今の若いもんに話して聞かせることがある」
「9発中3つしか当たらないようじゃ兵隊の訓練はだめだ」
と嘆いたという。そして絶命。
壮絶な死ですね。あとからわかるものかもしれませんが、立場や思想と関係なくテロリストの怒り、標的になるのかもしれません。
1932年、この頃は1929年世界恐慌を受けて、昭和恐慌が始まっていました。特に東北は冷害もあり、身内を売るような困窮状態でした。なのに財閥は稼いでゆとりのある生活をしている。青年将校はこうした背景を持った若者でした。怒りの捌け口を求め、本来と異なる対象を攻撃する。過去にもあった事ですね。しかし歴史はここから軍部暴走へと動いていきます。
答え:五・一五事件
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