2019年桜蔭中学校社会より 縄文時代② 実はかなり広域移動していた!!
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。
今日は縄文時代の移動についてみてみましょう。
そもそも我々ホモサピエンス、アフリカにいたのにどうしてこんなに世界中に散らばっちゃったんでしょうか。
一説によると、
①言語を習得したから
②欲望が押さえられなくなったから
ということが考えられています。
言語を獲得することによって、仲間が知った情報を伝えることができるようになりました。
「あそこにおいしそうなマンモスがいる」
「森を超えて川渡って太陽の昇る方に行ったらなんかいる」
みたいなコミュニケーションを取ることができるようになり、大幅な移動が可能になりました。
そして言語を獲得することによって、想像力(妄想力)を獲得しました笑
これによって「うまい」「楽しい」などの快楽要素を維持、増幅、モチベーションにすることができるようになりました。結果ホモサピエンスの獰猛な集団戦法によって、旧石器時代の大型哺乳類が捕食されていきました。
マンモスやメガテリウムなどはホモサピエンスが捕食で狩り尽くした結果絶滅したと考えられています。
美味いから襲う。毛皮で温かくなるから氷河期でも北へ北へ向かう。
ベーリング海峡を越えて南北アメリカ大陸にも向かう。
普通の生物だったら寒くて北へ行かないですね。氷河期に。
それでも行ってしまったのは、欲望のリミッターが外れた異常な動物だからです。
今でも同族同士、捕食目的以外で殺し合うのは人類以外にないです。

■超広域移動していた縄文人
さて、そんな旧石器時代を経た縄文人ですが、前の時代とはだいぶ異なってきました。1万年前となると、使えるものや都市文化みたいな物質環境は異なりますが、実は人間としては現代とそこまで変わらなかったと考えられています。
先ほどもサピエンスの移動を書いてきましたが、人類はものすごい距離を移動してきたんです。300万年かけたから?ではなく、比較的短期間でも移動が可能でした。
それは船です。手斧、石斧を手に入れた縄文人は船を作る事が可能でした。丸太をくり抜いて船を作る事で、陸地が見える沿岸をぐるーっと移動することができたのです。
また、黒潮などの流れに乗って移動することも可能でした。
漂流してしまう危険性はもちろんあるものの、人力だけではさすがに移動が限られます。誰かチャレンジャーがいたのだと思うのですが、往復することが可能となり、また「こっちに行ったら誰がいる、何がある」などの情報がちゃんとわかっていたのでしょう。
縄文人は船に木の種と瓜坊(猪の幼獣)、魚の干物などを載せて漕ぎ出しました。
自分達が船で食べていくものもそうなのですが、行った先でも食べて行けるように、準備して船で渡海したのでした。
八丈島ではそれまでにいなかった猪の繁殖が一時期から見られ、北海道でも一時期から栗林ができています。
これらは意図的に持ち込み、繁殖させたと考えられています。
縄文人は山全体、島全体を猪牧場にしたり、森を食卓とする管理能力に長けていたのでした。

■財の交換をしていたビジネスマン
縄文人。原始的な生活をしていたと思われていますが(半分はそのとおりですが)、実際はアクセサリーや財宝なども持ち合わせていました。
一番大切にしていたのは翡翠(ひすい)です。これは8世紀ぐらいまでアジアの宝石として価値を発揮していました。日本でも長く勾玉(まがたま)として珍重されてきましたが、これは縄文時代から作られています。そして勾玉のかたちにするために、工房跡も見られました。
当時の技術で固い翡翠に穴をあけるのは専門的技術集団が必要でした。
もう一つは、翡翠はこの当時アジアでは新潟県の糸魚川付近でしか産出しませんでした。15世紀くらいになって今のミャンマーでも産出するのですが、鉱物としては別物です。
古代の勾玉は朝鮮半島、シベリアの方まで広範囲に広がっており、それらの成分分析をすることで産地を特定することができます。結果、すべて糸魚川周辺からの発生でした。日本全土で見つかった翡翠もそうなのですが、糸魚川周辺から相当各地へ移動、交易などがあったことが分かります。

次は一番大切な食料についてみてみましょう。
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