経済の歴史④ 桶狭間は経済覇権の戦い~知多半島の一大収入源で生まれる軍事力の差異~
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
中学受験、御三家レベルの社会を楽しく学びましょう。
桶狭間の戦いは誰と誰の戦いでしょうか?
織田信長と今川義元ですね。
今川家は鎌倉時代から足利家の重臣で超名門です。
今川義元は駿河・遠江・三河の守護。
本人も「海道一の弓取り」といわれ武力も申し分なかった。
そんな今川が織田を攻めます。なぜでしょうか?
尾張は知多半島を持っていて、ここでは古くから常滑焼など陶器生産が盛んでした。そして海上交易も盛んで、商業地として魅力的だったんです。
実際信長の父織田信秀は朝廷の御所の修理代として4000貫文(3億円)をドンと出しています。
現在も名古屋はそうですね。京都大坂から繋がる道、岐阜、静岡へと繋がる交通の要衝なので商業も発展します。現在の名古屋人は「東京、大阪間で飛ばされる」と卑下していますが、トヨタ自動車が名古屋港から輸出する太平洋貿易の稼ぎは日本一。現代でも貿易物流の要衝です。
※自動車産業はめまぐるしく変わっているので直近状況はアップデートが必要です
こうした知多半島を巡る戦いが桶狭間でした。
織田信長の軍制改革は過去に書いたのですが、桶狭間の時点で既に実施、
正規軍を編成していた可能性が高いという研究も出てきています。
戦いの当日、清州上から桶狭間まで、40~50㎞の行程を半日で踏破しています。
当時では驚異的スピードです。1930年のに日本陸軍も行軍スピードは1日40㎞程度。
現代でだって徒歩だとマラソンランナー並み。
もちろん馬も使っていたのでしょう。
しかしこれはこないだまで田畑を耕していた農民を狩りだして編成した軍ではこのスピードは出ません。
農民兵は馬乗れませんし。
この背景が知多半島の海上交易による利益で、給料を支払って3000人ほどの精鋭部隊を作っていたのではないかと考えられています。街道で伸びたところの兵力の薄いところを奇襲したのはその通りだと思いますが、
その上での兵力差は
今川軍3,000~4,000人VS織田軍2,000~3,000人
だったのではないか、というのが最近の見解です。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません