経済の歴史⑤ 将軍を支える織田信長は官位よりも経済利権を求めた
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引き続き織田信長です。
足利義昭を将軍に据えるため上洛した織田信長。
この頃室町幕府は圧倒的に弱体化しています。なんせ将軍が殺されちゃう。
13代足利義輝は応仁の乱以降失墜していた幕府と将軍の力を復権しようとしましたが、松永久秀や三好三人衆に襲撃されて殺されてしまいます。
永禄の変と呼ばれますが、松永久秀が極悪非道といわれるわけです。
義輝の弟に覚慶という僧がいましたが、朝倉義景に匿われ、元服して足利義昭と改名して将軍として復権しようとしました。
相当強力な大名に守ってもらわないと将軍も京都に入れない。
これが京都将軍家の状況でした。
しかし織田信長が上洛し、三好三人衆を追い払い足利義昭は中央に返り咲きました。織田信長はこうして中央で実権を握ることができます。将軍家とは持ちつ持たれつの関係でした。
銅銭1000貫文(7500万円)、太刀、鎧、武具、馬などを献上し、二条御所を整備で1.5~2.5万人の人足を動員して3カ月で修復しました。
莫大な資金力を使って権威回復に努め、将軍義昭を喜ばせていたのです。
足利義昭は織田信長を副将軍か、将軍を補佐する管領になるようオファーを出しました。しかし信長は断ります。将軍だって名ばかりなのに副将軍なんてポジションに魅力がなかったのかもしれません(収入は上がりそうですが)。
その代わりに琵琶湖水上ルートの玄関口の大津、中山道と東海道の分岐点である草津を直轄領にもらいました。交通拠点から上がる莫大な富を取ったのですね。
資金については矢銭(軍資金)を集めており、これを治めれば安全を保障するというものでした。(ヤクザのミカジメみたいなものですね)
日本最大級の貿易港だった堺には2万貫文(15億円)もの矢銭を要求しました。
堺は実際それくらいの経済力があったのですが、当時の感覚から言っても莫大な経済利権です。織田信長は軍事力もさるものながら、経済政策がずば抜けて得意だったのだと思います。
堺の街は会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる有力商人が自治を行っていました。大名が支配していない特殊な街だったんですね。実際遣明船貿易では往復で20万石に匹敵する利益を生み出すとされ、大大名クラスの商人が小さいエリアにひしめいていたのが境でした。莫大な貿易を担う堺の商人。フィリピンやヴァタビアまで行っちゃうんです。交易路持ってるんです。
イエズス会宣教師なども境に出入りし記録を残していますが大注目の街だったでしょう。
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