経済の歴史⑩ 鎌倉幕府滅亡と建武の新政は経済力の変遷で見える
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
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武士の世を到来させた鎌倉幕府。
しかしその鎌倉幕府も崩壊する時が来ます。
北条氏が統治し続けた鎌倉幕府。
元寇などの外敵から日本を守ったものの、莫大な戦費を御家人に求めながら、買っても土地も何も上げるものがない状態になってしまいました。結果として御家人の不満が溜まっていきます。そりゃそうだ、と思いますが要するに経済的に行き詰ってしまったんですよね。
もはや利益が欲しけりゃ分捕るしかない。
いいか悪いかわかりませんが、新田義貞が鎌倉に攻め入り幕府滅亡。
北条氏は一族郎党潔く死んでいきました。潔い武士の死。
美談に語られがちですが、現在でもそのことについては誰も知らないくらい、注目もしていないし話題にも上りません。北条氏はもっと生き残ってもよかったのかもしれません。
足利尊氏は京都に上り、後醍醐天皇を支持して建武の新政が始まります。
北条方についた武士から領土を没収して足利側についた武士達が褒美をくれと要求する。その後南北朝に分かれますが同じで南朝の武士達が負け、その領土を北朝側が巻き上げる。
いいか悪いかわかりませんが、歴史はその繰り返しですね。
後醍醐天皇は建武の新政で天皇中心の国家体制を作ろうとします。
・摂政・関白をなくし、天皇に権限を集中させた。
・天皇の権威を高めるため、大内裏の造営を進めます。
この辺りはまだよかった。しかし、
・土地所有権には天皇の綸旨が必要となった。
徴税権や警察権を勝手に奪われた武士達は反発を強めました。
・造営費用を捻出するために乾坤通宝を発行しました。
武士達は流通している宋銭のコントロールで利益を得ていたのですが、新通貨を朝廷が管理すると利益が失われます。
これにも大反発した。こうして後醍醐天皇は支持をなくし吉野に追い込まれ、南朝の動乱へと繋がっていきます。
経済政策って間違えると大変な事になりますね。
力技が必要な時もあると思いますが、後醍醐天皇は天皇中心の政治を取り戻すために、支持して助けてくれた武士達を追い込むような政策を実施していった。
政府は入れ替わってもいい。そう考えると攻撃される口実を与えることになるので天皇家は常に表に出てこなくていいのかもしれませんね。
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