2019年桜蔭中学校社会より 縄文時代⑤ 平和な縄文、戦乱の弥生
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。
前回は文明について触れました。原始生活から文化的な生活になったらハッピーじゃん。と思いきや。
実はそれより大変なことが起こったのでした。
■農耕を拒否した縄文人
農耕を始めた「文明」の結果は、殺人と砂漠化。
縄文人は思いました。
「文明って偉いの?文明って、いるの??????」
一見食糧難を回避できる農耕は素晴らしい技術のように思います。ずっと安心して食べていける。しかし、農業そのものも自然の土を痛めつける人為的行為でした。
そして水田耕作をしませんでした。
欲望を抑えること。
自然とともに生きる事。
それがどれほど大切か。
今日本列島に生きている私達は、未来の先の先まで見た縄文人のおかげで豊かな自然のある環境で生きられているのかもしれません。
しかし弥生の波は押し寄せてきます。
■弥生時代の到来
よく中国や韓国から稲作がもたらされた、なんて言われますが、あれは半分ウソです。
稲の起源が雲南省当たり、ということを考えると西の大陸から入って来たというのは合っているのですが、現在は稲の品種から辿ってきたルートが分かっています。
一番最初に日本列島に来て食べられていた稲は熱帯ジャポニカという種類です。これは東南アジア経由で入ってきました。
次に時代が下って中国からも入ってきます。これが温帯ジャポニカという種類です。
これは長江付近から来たとされています。稲の種類を見る限り、朝鮮半島からは入ってきていません。
弥生人。彼らはのちの渡来人と同じ、大陸から渡ってきた人達でした。
弥生時代って、ざっくり紀元前100年前後とすると、お隣の中国大陸では紀元前500年くらいには春秋戦国時代を迎えているので、とっくに農業も文字も金属製農耕器具も、武器も戦争もやっていたのでした。
縄文人も広域の海洋航海技術を持っています。大陸の情勢も知っていたのかもしれませんね。
弥生人が入ってくると、農耕が始まります。素晴らしい技術とともに、戦争と殺人も持ち込まれるのでした。
魏志倭人伝の記録では、卑弥呼の時代には「倭国大乱」と表現されています。多くの国が乱立し、殺し合いを続けている。もう戦国時代ですね。
この状況がヤマト王朝が成立するまで、5世紀あたりまで続きます。
人口が少ないためそこまで頻繁ではなかったかもしれませんが、やな時代ですね。「文明」をもたらした弥生人は縄文人よりもはるかに蛮族です。
そして弥生時代が始まります。
もともとの弥生時代の定義は、福岡県の遠賀川遺跡で見つかった弥生式土器、水田などから弥生時代の開始としていました。
しかし、全国的には圧倒的に縄文生活が続いていました。
北海道に至っては鎌倉時代くらいまで縄文時代という区分です。
さすがに遺跡1つ、福岡県一地域だけで弥生時代開始、というのは乱暴じゃない?という議論があり、現在では時代区分の見直しが進んでいます。
しかしどう決着がつくのか。
弥生って、結局技術であって文化ではないのだと思います。
そして弥生人もまた、縄文化していった。
■弥生に抵抗した縄文人
日本列島に住んでいた縄文人は、ゆゆしき事態と思い抵抗します。今まで平和に暮らしていたのに、田んぼ作っていきなり病気になってる集落が出てくる。食い物もっていってあげたら襲われる。そんなこともあったかもしれません。
逆に猪もっていったらお米をくれたかもしれません。
こうして徐々に山と里との交流が生まれてきました。
しかし基本的には、これまでにない殺人がもたらされたことを考えると、共生しながらも抵抗していたことが分かります。
日本全国に農耕が広まるのに、約500年かかっています。
農業がそんなに素晴らしかったら、もっと早く広まっていたと思いますが、想像するよりかなり長く抵抗運動は続いたのかもしれません。
土偶は何のために使われたのかよくわからない代物ですが、一説によると呪術に使ったとされています。
一時期には青森県で作られた土偶がわざわざ東海地方に運ばれて使われた形跡があり、西から東へじりじりと広がってくる弥生勢力に対して抵抗するために呪術に使っていたのかもしれません。
でないとわざわざ移動させないですもんね。土偶の旅。何が目的だったのでしょう。。
もうひとつ。
弥生の技術を持った人たちも、縄文人と接することで縄文文化を受け入れていった形跡があります。
隣同士で弥生と縄文の異なる様式を持った集落が近畿地でも見つかっています。
そして東奈良遺跡で見つかった銅鐸は、デザインが縄文化しているんです。銅鐸の型自体は朝鮮半島でも見られるような、同じ鋳型で作られたのではないかと言われているようなものなのですが、そこから縄文デザインが施されています。
もはや弥生は単なる技術だった。もちろんそこにはもともとのデザインなどもありましたが、基本的には無地シンプル。機能性のみでした。そこに精神性を込めてデザインをしていった縄文の方が精神的文化があったといえそうです。

ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません