2019年開成中学校社会より 豊臣秀吉⑨刀狩り
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。
戦国時代。いわゆる武将たちの戦い以外にも、様々な切り口がありますよね。海外情勢から国内統治について。この時代は本当に勉強になります。
豊臣秀吉は1590年天下統一2年前の1588年、刀狩り令を出します。
■刀狩り令
豊臣秀吉が1590年に天下統一する前段階から天下統一の勢いがあり、基盤固めを進めて行っています。その一つが刀狩り令です。
これって、なんのためにやったのか?
簡単にまとめると、
①(表向きは)大仏建立の金属素材を集めるため
②武士と農民を分離するため
③治安を安定化させるため
の3点です。
刀狩り令の表向きの理由は、刀の平和利用で、仏像を作ったり梵鐘を作るなどの寺で金属が必要なため、その素材にするためでした。これ自体は実施されるのですが、主な目的としては兵農分離にありました。
先にも書きましたが、上杉謙信と武田信玄が川中島で何度も戦ったのは、田植え、稲刈りの季節が来ると武士は帰らなければならなかったからです。武士=農民だった。
その状態を変えるために、常備軍を作るために戦い専門集団としての武士を作った。これは織田信長も始めていましたが、刀狩りによってより明確化しました。
先ほどの逆で、当時は農民=武士でもありました。こうした農民は地侍とも呼ばれ、バカにならない戦力がありました。また、何かがあると一揆を起こす。そうなると食料生産も安定しないし、他国に攻め入る余力がなくなり内部に労力を費やします。
黒澤明監督の『七人の侍』という有名な映画があります。とてもいい映画なのですが、1点認識が間違っていたとすれば、農民は野武士がやって来たくらいで侍を雇わなければならないほど弱いわけではなかった、ということです。
百姓の一揆って、鍬(くわ)を持って戦うイメージがあると思いますが、普通に農民が槍や日本刀があったら?軍事教練も受けていたら?
もともと川中島とかに遠征に行ってた一部が一揆を起こしたら?
これも結構イメージ違うと思います。
侍が一揆鎮圧するのに一方的に農民反乱を鎮圧していたというより、結構ガチな戦いになる可能性もあるわけです。差があるとすれば騎馬兵ですが、農民も牛、馬だっていますしね。もちろん常備兵より劣ると思いますが、それでも農民の反乱。バカにならない戦力です。藩や所領の統治も結構大変ですね。
さて、ちなみに豊臣秀吉が行った刀狩令は統一の2年前、1588年です。
刀狩令だけだと、実は実施したのは秀吉だけではないし、複数行われているのでひっかけで出そうですね。刀狩り令は刀だけ取り上げたので、実は農民が完全に無力化させられたわけではありませんでした。
武器があるとどうしても力対力のケンカになる。刀狩りは片方の武器を取り上げることで、「武器VS武器の戦い」から「拳VS拳の戦い」へと変化させました。片方から武器を取り上げれば武器VS武器のケンカに発展しなくなる。農民統治というのは働いてもらわないと困るので、一方的に殺傷したいわけではないんです。むしろ95%は元気に働いてほしい。
刀狩りと同時に喧嘩停止令も出ています。身分を分けることでこうした治安安定策だったといえます。食料増産にも力を入れられるので生産量も増えますね。結構成功した政策でした。
■戦争が始まるのは言いがかりから
こうして刀狩によって集めた鉄で方広寺というお寺を作りました。
秀吉の死後ですが、このお寺がきっかけで戦争が始まります。
方広寺では梵鐘(大きな鐘)を作りましたが、そこに刻んだ文字が問題だったのです。
「国家安康」「君臣豊楽」
文字通り
「国が安定して安らかであり、君臣共に豊かで楽しく過ごせますように」
というような意味です。もう平和への祈りでしかない。
豊臣家はもうほとんど無力化していて徳川政権に趨勢が傾いていたわけですから。
しかしこれを見た徳川家康。
ブチ切れます。
なぜかというと、「国家安康」というのが家康の2字を分断していて呪っている。「君臣豊楽」というのが豊臣家の繁栄を願っている。
というのが理由です。
これが1614年方広寺鐘名事件です。
正直言って、言いがかりです。
しかしここから大坂の陣が起こります。
刀狩りで平和を願って建てた方広寺でこんなことになるなんて。。。
ここから言えることは、平和を願っているだけでは戦争が起きない、なんてのは1000%ウソだということです。残念なことですが歴史の真実です。
「平和を!」と唱えているだけで平和になるなら30000回でも唱えますよ!
実際の平和はパワーバランスを保つことで成り立ちます。
しかし、秀吉亡き後ほとんど実権は徳川家に傾いた後でも、最後のとどめを刺すべく、徳川家康は情け容赦なく豊臣家を滅ぼしにかかります。
ここから西軍の武将たちが集結し始めるんですね。関ケ原の戦いから約14年。徳川幕府ができてから天下泰平に向かって行くと、今度は侍が不要になります。
さっきの兵農分離の弊害ですが、常備軍として戦闘専門の侍は農民に戻れなくなりました。働くところがない。徳川幕府に仕官するわけにもいかない。できても一生下働き。
それならば豊臣家を再度立てて、一発逆転、徳川家をぶっ倒せ!
となる訳です。
豊臣家はさすがに滅亡を待つのみ、となると、西軍武将を集め、浪人となった侍を仕官させ、お金を払い軍勢を集めます。
しかし、なかなかそうはうまくいかないものです。
家康からしてみれば思惑通り。
西軍の浪人軍団が平和な時代にはびこっていると、いつ何時テロを起こされるかわからない。またいつ戦争を仕掛けられるかも警戒しなければならない。それならば生きているうちにもう一度完膚なきまでに叩き潰しておこう。
とまあ、そうなりますね。
2回の大坂の陣を経て、豊臣家は滅び、名実ともに徳川の天下となったのでした。
滅び、というのは語弊があり、実は幕末まで織田家、豊臣家(木下家へ降格)は小勢力の状態で存続しています。むしろ生殺しでした…
今も織田さんも木下さんも存続しています。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません