2019年桜蔭中学校社会①より 江戸時代の海外情勢③ 複眼的視点
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。
江戸時代の海外把握力、すごいですね笑
さて、続きですが、日本は中国・オランダと付き合っていました。正確には朝鮮とも初期は付き合っていました。
これは豊臣秀吉が仕掛けた朝鮮出兵の影響を抑える目的です。
実は江戸を首都に選んだ理由の1つは、朝鮮出兵により西側はゴタゴタ起きる可能性があったため、日本国内の意識を平和な(?)東側に集中させ、首都機能も西の混乱を避けるためとされています。
朝鮮とも佐渡島を経由した朝鮮通信使というものを呼んで、文物の交換と外交をしていました。
「呼んで」とさらりと書きましたが(どこでもそうかいてありますが)、これは「朝貢させていた」ということを意味しています。
江戸時代には李氏朝鮮に対して清朝と日本に対して二重朝貢させていたのですね。琉球も同様です。
これに対して「どっちに仕えるのだ!」みたいな野暮なことは言いません。日本にとっても清国との交易が重要であり、間を取り持ってくれるバッファステートがあることはメリットがあります。
朝鮮通信使からは朝鮮出兵後の戦後処理と、朝鮮人参などの高級産物の輸入を行っていました。
しかし輸入品の内製化ができるようになると、朝鮮通信使は途絶えます。外交処理も終わり、産業も内製化できれば、交易は琉球からだけでもよかったということですね。日本はこういう産物も全部内製化してしまいました。江戸時代には「朝鮮人参の天ぷら」なんてめにゅーもありますよ笑
■清国とのお付き合い
日本はずっと清国(中国)との付き合いを続けました。これは日本の産物が高値で売れることもありますし、イギリス・オランダなどの西欧諸国がどのように動いているか、複眼思考で情勢を仕入れることができるからでした。ちゃんと複数情報で把握できるようにしていたのです。すごいですね!
今の「アメリカからの情報=世界の情報」と思い込まされている日本のメディア情勢とは違います笑
こうしてみると、江戸幕府はオランダから西欧情勢、途中のインドネシア(バタビア政庁)を経由した東南アジア情勢、対抗勢力としてのイギリスの動向、インド、中国の動向もほぼほぼ情報が入ってくるようになっていました。
幕末になってアメリカが開国を迫ってくるときに、江戸幕府の役人は
「時にアメリカの南北戦争は落ち着きましたか。大陸横断鉄道はどこまで敷設できましたか」
と聞いて、アメリカ人をビビらせたそうです。
東の辺境にある島国で、どこまで情勢把握しているんだ!?という牽制ができていたのです。江戸時代全般を通して、一貫して鎖国してませんね(笑)幕末の役人が無能だったなんてことは本当になかった。むしろ超優秀で幕末の役人が、江戸幕府がなくなっても日本のために未来に向けて行われていた仕事がたくさんありました。
■オランダからイギリスへ
江戸時代も科学技術をとっても日本は世界一のレベルに着けていました。これは他のアジア諸国が植民地化し、徐々に劣勢に置かれて行った状況の中では異質です。
政治的判断が優れていたのですね。
しかし、幕末になってくると情勢変化に追いつかなくなってきました。
一番の変化はイギリスの産業革命です。
これにより生産力に一気に開きが出てきました。
更に資本蓄積が進むことで、イギリスの海洋覇権勢力が増し、一段と植民地化が進行していきます。
植民地体制の在り方はざっくり4段階。
①アイルランド・北アメリカ大陸に入植し、カリブ海諸国と貿易をした時代
②アメリカ独立からアジア・アフリカに転じ、最盛期を築いた19世紀半ばの自由貿易時代
③自由貿易しつつ、後発工業国ドイツ帝国の追い上げを受け植民地を拡大した帝国主義時代
④ウエストミンスター憲章以後の独自の外交権限を与えた20世紀
イギリスは大東亜戦争以降のアジア・アフリカの植民地を失うまで、全世界の陸地と人口の1/4を版図に納めた世界最大の帝国と言えます。第1次世界大戦終結から第2次世界大戦まで、アメリカ合衆国とともに超大国でした。
①欧州で英仏100年戦争を繰り返していた時代、並走してアメリカ大陸でも英仏で戦争していました。アメリカが独立戦争後わかれたことにより、イギリスはアジアアフリカにシフト。インド支配を強めます。
②1600年に東インド会社を設立してからアジア進出は一貫して続けられました。
チェンナイ(マドラス)・ムンバイ(ボンベイ)・コルコタ(カルカッタ)に商館が置かれ、1757年プラッシーの戦いでフランス側のベンガル太守軍を破るとベンガルを統治。
東インド会社は貿易独占権を失効させていきながら、政治組織に変貌していきます。
ムガル帝国(現インド)の皇帝を傀儡化していましたが、1858年ムガル帝国を廃し、ヴィクトリア女王は「インド女帝」となりました。直接統治開始です。
東インド会社は会社なのに植民地統治権もあり、「会社軍」も持っていましたね笑
欧州の国、民間の関係はこれくらいの距離感にあるともいえそうです。外資の民間企業をホイホイと取り込んでいくとどういうことになるか。調査会社に調査させちゃっていいのか?
現代日本社会の大企業役員達にはこの構造が見えているのでしょうか。中国の企業も「公司(こうし:ゴンスー)」と呼びますが、これも国家機関の一部です。
ちょっとずれましたが、日本はこうした動向を、オランダ・清国から年1回は世界覇権情報をアップデートしていました。
日本国内においては西欧外国語=オランダ語でした。しかし、幕末に世界に直面したときに英語シフトが起こっていることを知り、福沢諭吉は一気に英語シフトするのでした。
しかし、当時の世の中の変化のスピードを考えると、これで十分最速と言えるでしょう。オランダ語やっていれば英語の方が簡単なので、すぐ習得したことでしょう。
明治時代に入るころにはドイツが後発の産業革命国として追い付いてきます。
日本はあとから産業革命を起こして追い付いてきたドイツを見習い、憲法などの法律は大陸法に準拠し始めます。皇帝と天皇の位置づけが似ていたこともあります。
日本国内でも江戸幕府はフランス式。薩長はイギリス留学。明治以降はドイツと様々な国と言語と方法でお付き合いしています。
ある意味この頃はこれくらいのバランス感覚でよかったのかもしれません。一国に偏るということは従属する可能性があったので。
今と違いますね。日本が独立していたからこその思考パターンです。
Aだけでいい。AかBだけ相手にしていればいい。
という従属民族の思考パターンと異なります。
さてさて、今は。。。近現代の歴史は現代の判断基準まで繋がりますね。
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