2019年桜蔭中学校社会①より 江戸と海外④ サムライ労務問題
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。
江戸時代って天下泰平と言われていましたが、アジア・アフリカは植民地化が進行し、受難の時代でした。
今と同じですね笑 中国の香港支配(奪還)。米中関係を基軸に、
AUKUS(豪・英・米の軍事同盟)、クワッド(日米豪印の安全保障の枠組み)などアジアを取り巻く軍事同盟ができ始めています。
平和が続けばいいのですが、戦争は常に外から吹っ掛けられるものです。お金があれば狙われる。軍備がなければ襲われる。脅されてむしり取られる。それが歴史の教訓です。
「平和を!」と念仏のように唱えて効果があれば、100万回くらい唱えるのですが。。。そうもいかないですね。
さて、時は江戸時代初期に戻り、戦国時代末期から江戸時代が成立したころの動向を見てみましょう。
■海外貿易は止まっていなかった
江戸時代は鎖国していました、というけれど、実際は常に貿易していた。
ただ、全方位的に解禁していたわけではなく、付き合う相手と場所を制限していた。それは正しい判断だったと思います。
オランダとは珍しいものを交易していました。
生糸を筆頭として、羅紗(らしゃ)、ビロード、胡椒、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入していました。
一方、輸出品目としては、銅、樟脳(しょうのう:キニーネと呼ばれる薬の原料)、陶磁器、漆などでした。
日本の伝統工芸品、ここでは大活躍です。漆塗りはそのまま英語でも(japan)と呼ばれていました。
基本は珍しいもの、高級材、文化財交易ですね。
また、中国人とも付き合いがありました。当時長崎の人口が6万人のところ1万人中国人がいた、というのですから、相当数の付き合いがありました。
対中国貿易では俵物(たわらもの)と呼ばれる干鮑(あわび)、煎海鼠(いりこ)、鱶鰭(ふかひれ)、諸色(しょしき:昆布のこと)、鶏冠草(とさか)など、干物珍品が輸出されました。これらは中国では取れなかったんですね。今でも中華料理の高級食材ばかりですが、その原料は日本産だったんです。
対中貿易も、中国の高級材を扱っていました笑
この長崎貿易ですが、難点がありました。それは輸出品目の大半が金・銀・銅だったんです。
オリンピックかよ!
日本に資源がない、なんてのは大ウソで、まさに黄金の国ジパング。
対オランダの輸出品目の半分が金になった事もありました。
そんなに金が出たの?という人は、関東だと近場の伊豆の土肥(とい)に行ってみてください。熱海温泉旅行のついでに、車だと行きやすいです。
資料館では砂金掬いもできますよ!(笑)
ここで金の掘り方、それによってできた街が分かります。
金が出る時だけ栄えたファントムシティー。
駿河湾の船を使って大変栄えた金鉱でした。
他にも佐渡や東北でも産出していました。火山列島ならではですね。
こうした輸出を始めると、自国内で使うものも高騰してきます。金銀銅の価格にも影響するため、新井白石という研究者は貿易無用論を起こします。もう内需だけでいいじゃん。贅沢品特にいらないよ。金銀流出する方がよくないよ。ということですが、その通りですね。
オランダはそのあたりよくわかっていて物珍しい物を持ってきては金銀をゲットしていったのでした。
あくまで幕府のコントロール下なのですが、過剰な貿易は曲者です。この金銀を狙った交易は、幕末開港の大きな目的の一つでした。日本の金銀が海外に流出していく。江戸時代を通じて発生していましたが、特に幕末は重要トピックなんです。
■西軍と労務問題
さて、江戸初期のもう一つの問題が西軍の侍達でした。
関ケ原と大坂の陣が終わって、徳川の世になった。しかしそれだけで天下泰平なのか?
そうではありませんね。
負けた侍達。機会があれば徳川を倒したい。天下泰平になったというけれど、平和というのは誰かにとって都合のいい平和であって、西軍の武将、侍達からすれば喰いっぱぐれたり追い込まれたり、つらい人生が待っている。
恩賞もない。仕官する先もない。働くところがないんです。
宮本武蔵も西軍についたのですが、もう別の道をひた走りました。
剣術という点では武士なんですが、彼が出世する道はもともとかなり狭き門だったと思います。
そもそも戦争がなくなってしまった世の中で、戦闘専門の武士はどうやって食べて行けばいいのでしょうか。セコム(警備会社)があったら再就職もできたかもしれませんがそれもない。幕府からすれば襲ってくるのは基本外様大名だから、西軍にいた侍ではセコムにならないですね笑
農民に戻ろうと思っても戦闘専門の武士になってしまったので戻れない。(戻った人達もいますが、拒否した武士もいます)
負けて所領を取られてしまった側だから基本土地もない。
幕末の頃もこの構造が残っていますね。例えば土佐藩の上士と郷士。
上士はもともと静岡から来た山内家。郷士はもともと長曾我部家に仕えていた地元の武士。
当時だと、はっきり言って言葉だって同じではなかったと思います。
親藩から来た山内家家臣と、もともと地元に居て、且つ敗戦側にいた侍では身分差があった、というのもその通りですが、もう言語も文化も違った。
見えない身分以外にも見える部分でそもそも異なっていたのだと思います。
こうした状況から離れようと、海外に活路を求めた人達も大勢いました。
南蛮貿易船に乗って東南アジアに出て行ったんです。
日本の「サムライ」のイメージは、幕末の頃のイメージ以外にも、このころ東南アジアで直接接触のあったサムライイメージが東南アジア、欧州へと広がっていった経緯があります。
東南アジアではそれこそ大航海時代、からの植民地時代。
戦争がたくさんありました。そのため侍集団は傭兵集団と変貌し、各地で雇われながら戦っていました。
ビルマ軍にも雇われ、バンコク朝タイの軍隊にも雇われる。
そうしてスペインやオランダを撃退する。
時には雇い主が双方日本軍を雇用したため、日本軍同士が戦うこともあったと思います。西洋側についたこともあったかもしれません。
タイだけでなく、東南アジア一帯には日本人町がたくさんあったのです。
彼らはいったいどうなっちゃったんでしょうか。
残念ながら海外だからか文献、記録が少ない状態です。
あと、どこの勢力がどこに残っているか、ということは残したくないですよね。徳川幕府から追撃が来るかもしれません。
おそらく普通に現地に同化していったんでしょうね。日系ブラジル人もですが、3世代目でもう日本語が喋れなくなります。日本人は華僑(中国系海外居留民)と異なり自文化を消しても現地化します。
東南アジアに行くと何となく郷愁を感じるのは、そうした日本人の先人の足跡が残っていて、あるいは日本人の血を引いている人達が大勢いるからかもしれません。
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