2019年開成中学校社会①より 上野編⑥西郷さん

■江戸無血開城~そして戊辰戦争へ~
—-quote—————————————————————————
西郷隆盛の銅像の背後には彰義隊士の墓があります。幕末に15大将軍徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に逃げ帰り、上野の寛永寺に謹慎したため、旧幕府を支持する者たちが、彰義隊を名乗って上野に集まりました。江戸無血開城が決まり、徳川慶喜が水戸に移っても彰義隊は解散せず、新政府軍に抵抗しましたが、壊滅しました。彰義隊士達の遺体はしばらく放置されましたが、やがて見かねた人が火葬し、墓を作ったそうです。

—-unquote———————————————————————–

どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。

この時代は現代とも近く、太平の世から戦争の時代に切り替わってくるので血生臭くなってきます。
教科書と正史は勝者の歴史で書かれているので、教科書通りです。ここでは基本的に敗者側からの視点で事実を見ていきましょう。

■西郷隆盛
  上野にも銅像が立っている西郷さん。上野に銅像がある理由は官軍として上野に入って来たからです。だから上野の銅像、イメージとしては間違っていますね。犬つれてぷらっと散歩に来たような銅像ですが、実際は東京に戦争起こしに来たんですよ。

上野の寛永寺は有名ですね。徳川歴代将軍は増上寺とこの寛永寺に葬られています。菩提寺ですね。増上寺は将軍15代のうち6人が祀られ、その霊廟は日光東照宮に引けを取らないほど立派でしたが、1945年の空襲で焼失しました。天皇家が江戸で滞在するのも寛永寺が多かったので由緒正しすぎるお寺です。天皇家に生まれた女性って、ほとんど結婚できなかったんですよ。恐れ多すぎて、結婚しようとする男子はほとんどいなかったからです。一般人と結婚するわけにもいかないですしね。。。一般人を皇族に入れるなんてことは当時はまず不可能でしょう。だからみんな尼さんになって寛永寺にいたんです。

15代将軍徳川慶喜大政奉還によって政治の実権を天皇へと返還しました。
これ自体はとてもよい行為だったんです。なぜなら国内で争う理由がなくなるからです。
 慶喜公、鳥羽伏見の戦いで逃げたために卑怯者扱いされることが多いんですが、大局的な視点に立って行動すると、日本国内で戦争している場合ではない、という結論だったんです。

 徳川幕府が負けた、というのは歴史的事実ですが、本気で全力で叩き潰しにいっていたらどうだったでしょうか?

いかに衰退していたとはいえ、徳川家が総力を挙げれば800万石くらいの力があります。これに譜代など入れれば、2000万石は超えるでしょう。
対する薩摩、長州は大きく見積もっても60万石規模。(これは大きく見積もっています。)かき集めても徳川家を上回る事はありません。

全力で完膚なきまでに戦うつもりであれば、負けはしなかったと思います。しかしそこまで行くような大戦争はしなかった。

 なぜか?
日本の近海には日本の内紛を望んでいる英米仏の連中が虎視眈々と日本の情勢を狙っていたからです。
 徳川幕府はフランス式軍隊で教練していました。一方薩摩長州の裏にはアメリカ、イギリスがついて武器を流していました。儲かりますね。

この頃アメリカで1861年南北戦争があったばかりなんですが、中古品の銃を日本にもってきて売りさばきました。最新式だと。日本国内では最新式なんです。
長崎のグラバー商会。イギリス人がいつの間にか居ついていますね。坂本龍馬はいったいどこから武器を調達していたのか?

事件の仕組みを追うときは、
Follow the money(誰が最終儲かっているかを追え)

という鉄則があります。
戦時中も同じですね。歴史的イベントがあった時に儲かっているのは、裏の構造を知っているからです。つまり仕掛け人か、それに近い存在ということです。

そもそもの鳥羽伏見に至る前の状況で、徳川方は戦わないように、戦わないようにしていました。大政奉還なんてされちゃったら戦う理由がなくなってしまう。
薩摩と長州はこれを良しとしなかった。戦争したかったんです。

単純に振り上げたこぶしが収まらない、ということもありますが、
もう一つの理由は、新政権を作るおカネがなかったからです。
もう一つは、おそらく借金して武器を買っているのでしょう。
よくある武器商人の仕掛け方です。だから戦争しなければならなくなる。
江戸幕府を倒し、徳川家の金庫を開ければ金銀財宝がざっくざく。これで新政府を樹立しようという目論見がありました。しかし金庫を開けたら空っぽ!!というところから戊辰戦争へと繋がっていきます。

西郷さんは軍事戦略家でした。
そのため江戸の薩摩藩邸にやくざやならず者を200人ほどかくまいました。そして江戸の町で罪のない民家や商家をいきなり襲い、窃盗、殺人などなどを繰り広げ、大混乱を起こしたら薩摩藩邸に逃げ込む、ということをしてきました。テロリストですね。長州藩士が京都池田屋事件で起こそうとしていたことと大体同じです。

これにブチ切れた庄内藩士が薩摩藩邸を焼き払います。
当たり前ですね。
西郷さんからすると、目論見通り「してやったり」でした。
西郷さんの目的は大政奉還して戦争しないと言っている徳川家を引きずり出すためには、現場で紛争を仕掛けて、手を出させることでした。
これで江戸に軍隊を連れて攻め入ることができる。

イギリスから買った新兵器で幕府軍を襲います。