2019年開成中学校社会①より 上野編⑧戊辰戦争2

どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。

やはり幕末。途中からいろいろすっ飛ばして最終局面から入ったはずなのにまだまだある。
乱世は一日一日が濃いですよね。

■上野戦争から東北へ
戊辰戦争について、本当はいろいろあるんですが構造をお話してぶっ飛ばしていきます。

主要な藩は会津藩松平家・米沢藩上杉家・仙台藩伊達家。

もうこの3藩が主力。

幕末のすべての事始め、会津藩は望んでいないのに京都守護職に任命されます。これって本当はひどい話なんです。

戦国時代から江戸幕府ができたときに、京都以西のにらみを利かすポジションは彦根藩なんです。彦根城の城門は西を向いています。
戦国武将西の雄、毛利家に対するにらみを利かすためです。
地理的にも彦根の布陣は京都を守るためでもあります。

 大老井伊直弼(いいなおすけ)も幕政の中心で幕末に出てくるのですが、本来親藩であり、且つ西の守り担当のはずなのに、いろいろ言い訳をして会津藩の祖法を引っ張り出してくるわけです。「徳川宗家に何かあった時は会津が出てくるのが|保科正之≪ほしなまさゆき≫公からの藩命でしょう」と。
いやいや、彦根藩のお役目、忘れたんですか?と言いたい笑
京都警護の優先順位、どう考えても彦根藩。

単純に遠い。なんで東北から京都に行くの?東京から東北だって遠いのに京都なんてマジ大変。当時は徒歩ですよ。彦根から京都なんてめちゃくちゃ近い。現代においては「京都・滋賀」というエリアのくくりですよ。すぐ近くなのにさぼった。まあ、1860年井伊直弼桜田門外の変で暗殺されているので、ビビってしまったというのが実態でしょう。
サムライならば不忠である!と言いたいところですが、井伊家は江戸時代に入ってもいろいろあったお家で、策謀で乗り切ったのだと思います。

真面目な会津藩。というか|松平容保≪まつだいらかたもり≫公。藩祖保科正之公を出されると弱い。当然ながら藩政では「行く必要あるのか?」となっています。彦根藩以上の理由はさすがにないです笑 
しかし殿様、結局呑み込み、京都に火中のクリを拾いに行きます。
情勢とそもそもの地理的前提を考えると言いたいことだらけだったと思います。しかし、忠義を重んじ命を賭す。侍ですね。

京都に行って仕事しなければ恨まれることもなく平和だったはずです。
しかし、京都には治安を乱して革命したがっているテロリストがいるため、新選組を組織して治安維持を図ります。
ここで一会桑政権が京都でできます。一橋・会津・桑名の略ですね。

長州藩士が京都騒乱を起こす計画を立てていたので取り締まったのが池田屋事件です。京都の町を火の海にする。バシバシ人々を殺す計画。
ええ??どんな計画。。。???そりゃ取り締まりますよね。

松平容保公は孝明天皇の信任を受け、朝廷と幕府のパイプ役も果たしていました。鳥羽伏見の戦い、その後❘御宸翰≪ごしんかん≫というのを肌身離さず持っていました。孝明天皇からの直々のお言葉で、「会津を信頼し、正義は会津にある」というものです。

とまあ、いろいろひと悶着あったのが原因で会津藩は薩摩、長州から恨まれるのです。
皇居に向かって大砲ぶっ放した長州。
かつて日本の歴史にここまでやった勢力はいたでしょうか?
この段階で日本のロジックではどこをどうひっくり返しても賊軍なんですが。。

冷徹な世の中の法則でいうと、
正義=武力です。
今も変わりません。

歴史にもしもはありませんが、
もし彦根藩が京都守護職でちゃんと仕事をしていたら?
戦争は京都、江戸までで止まっていたかもしれません。
東北に攻め込む理由がなくなる。
(別で理由を作るためにいくらでも仕掛けたかもしれませんが)
同時に、徳川家を含む共和制ができたかもしれません。
日本全体のバランスを考え協議する体制。
逆に考えると、内乱で落ち着かなかったかもしれません。
また、欧米につけこまれていた可能性もあります。

しかし当時の江戸幕府が欧米列強に蚕食されないために大政奉還し内戦を回避しようとした事を考えると、長くはやらなかったと思います。

実際大政奉還によって本来する必要のなかった内戦を新政府軍が起こしていることを考えると、どうしても戦争したかったんでしょうね。