平成29年桜蔭中学校社会②より お茶の歴史② お茶会の意味

どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。

お茶って不思議ですね。中国から来て、現代中国でも重要視されているのに日本文化としてしっかり定着しています。単なる飲み物じゃん、と思うと思いますが思ったより深いです。やはり御三家、日本文化の重要ポイントに触れるようにしているのでしょう。出題が深い。

さて、お茶と言えば千利休が有名ですね。今もある表千家、裏千家、武者小路千家など茶道の基礎を作った茶人です。

■千利休
茶人として知られる千利休ですが、基本的には商人という側面があります。東南アジアの南蛮貿易に携わっていたからこそ、お茶を扱いながら海外情勢について詳しい状態でした。

わび茶(草庵のお茶)の完成者として知られており、子孫はさきほどの三千家として続いています。
千利休は豊臣秀吉の側近という一面があり、秀吉が織田信長から継承した「|御茶湯御政道《おんちゃのゆごせいどう》」の中で多くの大名にも影響力を持っていました。
御茶湯御政道というのは、茶の湯を政治利用した信長の政治手法で、特定の家臣に茶の湯を許可し、茶の湯は武家儀礼としての資格を備えるようになりました。名前はのちに秀吉が命名。
功績のあった家臣に茶会を開く資格を与えたのですが、織田信長から主催が認められていたのは柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉の4武将のみでした。相当格が高いですね。

この『茶の湯』。
戦国時代に様々な意味を持って扱われます。どんなかというと、ざっくり下記4点です。

①茶器のブランディングと特別褒賞品
②臣下のモチベーションアップ策
③茶会の政治イベント化
④平和を楽しむ天下平治の道具

茶の湯は開催できる人物が相当限られ、実施するにあたって家臣は大変な誉れと感じるものでした。
この時代背景には、戦国時代に戦争と領土の取り合いに明け暮れていた武将が、次第に平和の方向にシフトしていくのに必要な仕組みでもありました。

茶の湯そのものは平和の象徴でもあります。戦争しないでゆっくりと茶を嗜む。
「そんな平和な時代を作れるのは俺だ!」
というのが茶会を開ける武将の位置づけだったのでしょう。
また、そんな茶会に招かれて、家臣も栄誉を感じます。
「殿の下で天下泰平を作るために粉骨砕身戦います!」
と思ったかもしれません。

しかしそんな名誉だけではおなかが膨れない。
秀吉の時代も後半になってくると、次第に攻める領土が足りなくなり、家臣に分け与える領土や黄金などの実物資産が不足してきます。
そこで茶の湯で茶器を与えます。
茶碗、匙(さじ)、棗(なつめ)などなど。

これって、戦国時代の状況を考えて無理やりブランディングしたようにも思います。
「茶道を嗜む武将は高尚であり、単なる戦争バカではない。俺の家臣で教養のあるお前らなら、茶器の価値くらいわかるだろ!?」
といったかどうかはわかりませんが、トップが価値を認めたからこそ、茶碗が一国相当のような価値を持っていくのです。(はい、錯覚です笑)

こんなところで天下人から一国相当の茶器をもらえてしまう大茶会イベント。
「あの武将すげ~!」
「やはりあの茶碗をもらえるのはあいつだったか」
と噂で持ち切りになったことでしょう。

更に、茶道にのめりこんでいって詳しくなれば、権力者と密に話ができるチャンスが生まれます。戦国時代は戦争で強い者が優遇され力を持ちますが、だんだんと戦争が減ってくると、戦闘能力ではなく行政的統治能力政策立案能力の方が必要になってきます。お茶会しながらこうした能力を見せたりアピールできますね。戦争中は「いくさを忘れて心を静かに」という茶の心は尊重されながらも全く話さない、なんてことはなかったでしょう。差し迫った緊急事態ですから。

茶器ブランディングの箔付けに、千利休は大いに利用されて行くのです。
こうした茶会に参加することで、相互の紛争を減らし、戦国の世から徐々に太平の世の雰囲気作りをしていく。
相当巧妙ですね。
人は贅沢したり、経済的に満たされていくと、死にそうな思いをして戦争したいとは思わなくなります。
一方では戦争して領土拡大しつつ、一方では平和に落ち着いていった先のライフスタイルを想像させるイベントを実施する。
統治者としては大変優れた行為です。
でもやはり、侘茶の根本的思想とは関係ないと思うのですが...笑