2018年開成中学校社会①より 近現代史 ② 明治の始まり②
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。
今日は明治の発展を見てみましょう。
■明治期の発展(横浜)
殖産興業と言ってもいきなり鉄鋼を扱うことはできません。重工業を始めるにはそれが可能な工場を作る必要があり、思ったよりも大変です。全国に広めるならプロトタイプも必要ですね。実験的に第1号を作る必要があります。
まずは生糸や絹製品など、江戸時代から特産品となっていた産業をそのまま海外展開し始めます。
横浜には開港記念館というのがありますが、幕末の横浜開港から外国人居住区が作られ、関内という区画を作り攘夷派に襲われないよう近くに陣屋を置いて管理し、貿易を促進します。福井藩の商人など様々な地域から貿易に集まり、生糸の商売を始めています。日本を代表する芸術家岡倉天心もこうした環境で生まれました。
開港した後に横浜中華街ができました。神戸にもありますが、港がある街にはチャイナタウンができます。理由としては、
①当時|苦力《クーリー》として中国人が東南アジアを中心に奴隷のように欧米人に使役されていたこと
②日本人がそれほど働かなかったこと
が挙げられます。まあ、経済が安定(停滞)していたら猛烈に働く必要はないですし、欧米人からすると中国人の方が働いたから、ということでしょう。それで沢山連れてこられていたのでした。
ちなみに苦力ですが、確かに奴隷のように下働きをする仕事に従事していました。しかし中国人は本当にたくましいもので、わずかな賃金を貯蓄し、学び、仕事を覚え、現地で裸一貫で事業を作り出し、地元に定着していきます。中国大陸から離れて海外に住み、現地化する中華系民族を華僑と呼びます。華僑も財閥に成長するまではなんだかんだで3代かかるといわれていますが、それでもどこでも急成長を果たし、今では世界中に広がっており、別の中華圏を作り上げています。東南アジアでは人口3~10%程度で60~70%の経済力を占め独占するため、現地での摩擦や反発もどこでも大きいです。
横浜の中華街は世界最強のチャイナタウンです。
革命の父孫文を育て、数々の政治家を育てた土地です。中国革命同盟会などの革命の母体となる同盟はほとんど東京で結成されています。現在の中華人民共和国の政治家には日本留学組がかなり多く含まれています。不思議ですね。日中関係は実はものすごく濃密なんです。中国革命のために中国に戦いに行って戦死している日本人も多数います。
こんな成り立ちの横浜。横に長~い浜辺だったので横浜です。
何もなかった村だったのですが急速に発展していきます。
西洋理髪店も始まりました。
「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」
と言われ、侍がちょんまげを切り落とし、真ん中分けスタイルになっていきました。(途中どうやって髪を伸ばしたのでしょうね笑)
時は明治。文明開化。新時代の幕開けです。
これまでの士農工商という身分社会がなくなり、四民平等になりました。人力車が街中を走り、すき焼きが流行ります。具体的に人々の暮らしと景観が変わっていきました。
江戸時代以前も肉食は部分的にありましたが、山の民以外は文化的にはあまり肉食ではありませんでした。魚おいしいですしね。そして牛は農耕牛として貴重な労働力でした。そのあと手で農耕なんて大変すぎるので、牛を大切に扱い殺すなんてことはしなかったんですね。しかし文化としてすき焼きが始まりました。
この当時は今もにぎわう中華系の料理店も増え始めましたが、西洋家具を扱うお店、海外との連絡で使う便箋などステーショナリーを扱う文具店が軒を連ねました。この時代は各地に西洋建築ができ始めていたので、こうしたものが売れたんですね。先ほどの中国人経営のお店もありました。
また、鉄道も初めて敷かれました。
はじめは横浜―新橋を往復する蒸気機関車。当時は陸蒸気なんて言われていました。蒸気船が先だったからですね。
当時鉄道を見たことがない庶民は謎の鉄の怪物を恐れ反対していたのですが、いざ敷設されるとこれまで徒歩では移動できなかった距離をモノを持って移動できるようになったので、交通が大きく変化しました。
横浜―新橋なんてたいした距離ではないように思うかもしれませんが、横浜は貿易港です。
海外からの舶来物の輸入品が東京に流通するようになりました。
もう物流革命です。
物流革命が起きると、世の中にいろんなものが流れ、生活が変わります。次回はそんな社会変化を見てみましょう。
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