蘇我氏VS物部氏の戦争はあったのか?
どうも。歴旅です。
古代史を旅しています笑
さらりと過ぎていく日本の古代史。でも今に繋がる国家の根幹部分なんですよね。今日は前回の続きです。
崇仏派と廃仏派の戦いである丁未の乱(ていびのらん)。これにより物部守屋が破れ、衰退したとされています。日本書紀には次のような記述があります。
時の人、相語りて曰く、「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連(おおむらじ)の妹(いろも)なり。大臣、妄りに妻の計(はかりごと)を用いて、大連を殺せり」
蘇我馬子の妻は物部守屋の妹で、馬子は守屋の妹を利用して守屋を滅亡させたということです。どう利用したかというと、
大臣の祖母は物部弓削大連の妹なり。故母が財に因りて、威(いきほひ)を世に取れり
馬子が守屋の妹を娶ることで、徐々に物部氏の財力を奪い取っていったという説明です。実際に物部氏の所領は徐々に浸食された形跡があるので、『日本書紀』の言い分は説得力があるのですが、当事者同士の言い分があります。
加害者側の蘇我氏に近い立場で書かれたと思われる『元興寺縁起』によると、物部氏の仏教推進派に対する迫害は確かにあったものの、しかし両者の決定的対立はなく、最終的には和解していたとしています。
被害者側の物部氏寄りの文書『先代旧事本紀』がどう書いているかというと、宗教戦争に全く触れていない上に、物部守屋と蘇我馬子がどう対立したかも明らかにしていません。
これに加えて、日本書紀は守屋の死で物部氏が滅亡したかのように記録しているが、『先代旧事本紀』では守屋を傍流として位置づけており、物部本流は関係なく生き続けていると記録しています。
そして物部鎌姫大刀自連公(もののべのかまひめのおおとじのむらじきみ)なる女性が仏教推進派の推古天皇のもとで政治運営に携わり、しかも馬子との間に豊浦大臣(とゆらのおおおみ:蘇我入鹿)を産んだと誇らしげに記録しているのは不思議です。
これまで『日本書紀』の記述を正として教科書は教え続けてきましたが、複数の文献を照合していくと、どうも事実と異なりそうな点が多く上がってきます。
物部氏から財を奪い、権力を専横した蘇我氏を滅亡させた中大兄皇子と藤原鎌足が正当である、という物語を描くには都合がよいですが、藤原鎌足の方がどう考えても出自が怪しく、それに対し物部氏も蘇我氏も元々天皇家に近い古くからの有力豪族だったことを考えると、歴史改竄の意図があったのではないでしょうか。だから日本書紀の編纂は40年近くもかかっているのでは、と推測してしまいます。関係者が生きているうちは、虚偽の話が成立させられなかったのではないか。傍証として、日本書紀は当初天武天皇の時に歴史書編纂を開始しているにもかかわらず、生きていて話もできる天武天皇の若い頃の記述がありません。白村江の戦いのときに何をしていたのか。遷都が頻繁にある中、どこで何をしていたのか。日本書紀は天武天皇がなくなった後に完成していますが、自分の時代に開始したのに書いていないということは通常考えにくいです。これは本人が書かなかったというよりも、後になってから削除された可能性が高いです。8世紀初頭の正史『続日本紀』にも、禁書を隠し持つものを取り締まる話が二度ほど出てきています。文献が少ない時代ですが、日本書紀は誰にとって正しい歴史を記録しているのか。議論の余地が大きい歴史書です。
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