2019年渋幕中学校1次社会②より 歴史評価見直し問題⑨ 僻地は遅れている!?

5月 5, 2023

どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。

東京から遠いところは田舎で儲からない。そんなイメージがあります。ハズレではないですが、全部において当てはまるわけではありません。
対馬には宗氏という大名がいます。もともと秦氏の末裔惟宗氏でしたが、室町中期から平知盛を祖とする桓武平氏と名乗るようになりました。
朝鮮半島と近いため、特殊な位置付けでした。戦国時代に豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったことから、江戸時代初期は戦後処理も重要な問題でした。徳川家康が都を江戸に移した理由の一つは、大陸から距離を取りたかったから、と言われています。
江戸に来させる=実質的に朝貢させていたのですが、宗氏は朝鮮通信使との儀礼、情報のやり取り、通訳、幕府との調整を行いました。戦後処理と独占交易で経済的関係を維持しました。独占交易は儲かりますね。
最近は隠れキリシタン遺跡群が世界遺産に登録されましたが、日本海側の島々は幕府、政府から隠れて活動する場所ともなっています。信頼できる大名の配置が重要で、徳川幕府の信頼があったことが分かります。宗氏は対朝鮮の独占貿易権を与えられており、10万石大名で幕末以降も途絶えることなく、伯爵に列しました。

弘前藩のアイヌ交易にも触れておきましょう。弘前藩は青森県の西半分に位置します。弘前城の桜が有名です。領地や藩主津軽家は幕末に10万石に高直しをしたことで家格が向上し、大広間もある国主になりました。
 幕末に近くなると対ロシアの蝦夷地警護を任され、地位は向上していました。ここで石高は米の生産量で評価されていますが、実際はアイヌ交易を独占していました。アイヌ交易は毛皮や矢に使う鷹の羽などは高額商品でした。また、ロシアのコート、清朝貴族の服は「蝦夷錦」と呼ばれ、高価な商品として取り扱われました。
弘前藩だけでなく、ロシア帝国の南下に伴い、仙台藩、会津藩、米沢藩など東北各藩が蝦夷地警護とともに江戸後期から開拓を始めていました。
 江戸時代後半には現在の紋別市、オホーツク海域にもロシア人がラッコの毛皮を求めてやってきました。対ヨーロッパ貿易では毛皮が主な交易品だったため、シベリアから東へ東へと向かっていた頃でした。
 アイヌ民族、と一言に行っても、実は1つのまとまった民族ではありません。バラバラに集落を形成し人種的にも言語的にも差があります。特に道東地域はオホーツク文化圏と呼ばれ北海道の中でも別とされています。DNAで見ても欧州に近い人達がいました。
江戸時代末期には松浦武四郎という人物が蝦夷地探検に出かけ、様々な描写を残しています。
これらの地域は石高では普通(でも大規模)ですが、交易を合わせると莫大な利益になります。正しく把握するのは困難ですが、経済力も相当だったでしょう。