大化の改新はあったのか?

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645年大化の改新虫5匹(645)。
大化の改新です。中大兄皇子が即位し天智天皇となり、大きな変革と成果を残したように教わりますが、本当でしょうか。
 
 日本書紀には中大兄皇子の人気が低かった記事を残しています。むしろ民衆が罵倒しています。中大兄皇子と藤原鎌足が実権を握ったのは乙巳の変の直後ではないのです。皇極天皇(女性、ちなみに中大兄皇子のお母さん)の目の前で蘇我入鹿を切り殺して政変を起こした後、次にすぐ即位したら怪しさ満点と思ったのか、次に孝徳天皇を即位させています。しかし孝徳天皇とはなぜか対立し、本来側近の立場のはずなのに、孝徳天皇の周辺から役人や後宮を引き離して天皇を難波に置き去りにし、皇極天皇を重祚させ(もう一度天皇再任させ)、ようやく自由に動けるようになりました。次に天智天皇として即位するのですが、事前にやらかしていたのが度重なる土木工事と強引で無謀な百済遠征、白村江の戦いでの大敗北であり、民衆の負担はかなり高かったことが予想できます。

 大化の改新に話を戻しましょう。
これは蘇我入鹿を排除し孝徳天皇が即位した翌年の大化2年に出された改新の詔(みことのり)が元となっています。
従来はこれによって公地公民制、租庸調の税制、班田収授法が確立されたとされています。
しかしこれも藤原京から木簡が発見され、『日本書紀』は編集者によって潤色されたことが明白になっています。
 具体的にはどんな制度を作ったのか見てみましょう。

第1条:天皇や豪族による土地、人民の所有を廃止しました。それまでは各自の私有地で、天皇・王族の所有地は屯倉(みやけ)、支配民は名代(なしろ)、豪族の所有地は田荘(たどころ)、支配民は部曲(かきべ)と呼ばれていました。これを全て天皇による統一支配体制へ転換しようとしました。

第2条:首都設置、畿内・国・郡など地方行政組織を整備し、境界を決めました。また中央と地方を結ぶ駅伝制を確立しました。

第3条:戸籍・計帳という人民支配方式と、班田収授法という土地制度を定めました。

第4条:税制を定めました。のちの田租に当たる、田地面積に応じて課せられる租税です。

こうしたことをやったという大化の改新ですが、のちの考古学的発掘から、日本書紀は年数をごまかしているということが分かりました。実際は言っただけで長期にわたってできていなかった。そこから「本当に大化の改新というのはやったのか?」という疑問が生まれました。

 代表的なものが郡評論争です。郡も評も「こおり」と読むのですが、大化の改新後も、それ以前からあった評の記載がある木簡が出土し、645年の大化の改新が出たのに699年にも評がある、という状態でした。近年では665年段階で少し50戸の行政単位が生まれているたとする木簡が見つかり、徐々にはやっていたようです。

 ただ当時の事を考えると、地方隅々まで到達、浸透するにはかなりの時間がかかること、実際は豪族の反発がかなりあったことは容易に想像がつき、地方社会への影響が大きいだけに長く定着しなかったと考えられます。次の大宝律令が701年に出されますが、大化の改新では20~30%程度しか実現できなかったのではないでしょうか。
言い放ったはいいけど、実現されたのはちょっと。という状態だったのかなぁ。
移動も難しかった時代に、やりたいこともなかなか進まなかったのかもしれませんね。

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Posted by rekitabipapa