2019年渋幕中学校社会②より 水問題② 縄文海進
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
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今日は縄文時代の地形から水を切口にしてみましょう。
地理問題でもあります。
問題です。縄文貝塚が現在内陸で見つかるのはなぜでしょうか?
歴史×自然地理の観点としては、
①地形は地殻変動・地震で変わる
②川の流れも変わる・人為的に変えている
ということを前提としてください。
人類は水流など水と共に都市を建設し、文化、産業、輸送を発達させてきたので自然地理に背いた形の都市計画などは滅びます。
縄文時代はかなり古い時代です。一番の例は千葉県で、縄文遺跡数全国一。加曾利貝塚を筆頭に縄文文化がさかえた地域です。
縄文遺跡を見るとかなり内陸側に遺跡が多数あります。貝塚が大量に見つかるのですが、なぜでしょうか?

当時は海が埼玉から群馬の奥地まで、内陸に入り込んでいることが分かりますね。今から約6400年前ですが、千葉はほぼ島。縄文人が内陸に住んでいたわけではなく、水の傍で生活しています。
諏訪湖周辺は一大人口集積地として縄文後期、晩期に繁栄しました。縄文中期から和田峠の黒曜石が流通していたことから、交流の道があったと考えられます。千葉が水没したため、縄文人は富士山を目標に甲州街道を進み、北上して諏訪に辿り着いたと考えられます。
さて、この縄文海進地図から、その後の歴史地理で何が考えられるでしょうか?
①徳川家康の治水工事
戦国時代、陸地にはなっていたものの、関東平野は広大な湿地でした。関東八州を得た徳川家康は、江戸幕府を開くために利根川の水流を変えようとしました。もともと東京湾に流れ込んでいた利根川を、千葉方面に曲げるため、埼玉県会の川(あいのかわ)で川を掘って水流を曲げています。これが縄文海進の時の地形と一致します。戦国時代の測量技術と土木工事技術に感心します。

②地震があった時の防災MAP
地理で防災問題が出そうですね。上記は浸水したときの東京中心の地図です。横浜、川崎、江東区、荒川区、足立区など全滅ですね。千葉も市川、浦安など湾岸は海の中。埼玉方面も北区、浦和は水没。佐倉、成田、あるいは山の手線から西は大丈夫そうです。
答え:当時は海岸だったから
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