地震で変わった日本史 天正大地震⑥ 徳川幕府を生んだ大地震

どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。

戦争では同盟網を構築して有利に進めた徳川家康。
しかし秀吉は戦闘での失点を調略で挽回します。
狙いを信雄に絞り、信雄の領国を攻め、 併せて信雄との和平交渉を行います。
信雄は秀吉の甘言に乗せられ講和を結びました。
 しかも、家康に無断で行ったのです。。。

この辺り、秀吉の調略が上手かったと言えます。そして信雄はやっぱりたわけ者…
戦争起こしてまで何がしたかったんでしょうね、という結末です。
信雄に助勢するという大義名分を失った家康は三河に引き上げました。
 「三介殿のなさること」と家康は嘆いたとか嘆かなかったとか。。。
家康も信雄がまともに動くと思っていなかったと思いますが、こんなに簡単に秀吉に落とされるとは。と思ったでしょう。同時にやはり秀吉が上手かったと言えます。

家康は引き分け状態で終わりましたが、それでも、長久手における秀吉相手の一勝が生涯の勲章となりました。 この後、秀吉は家康を従わせるために、懐柔策に方針転換した、と語られてきました。 ところが、近年、それは大きな誤りだとわかってきたのです。誤りに気づかされたのが天正大地震です。

 実際には上洛命令に従わない家康を秀吉は武力で討伐しようと計画しました。 小牧・長久手の戦い後、信雄を味方に取り込んだ秀吉は西に向かいます。 紀州、四国を平定、関白に昇り詰めました。天下人となった秀吉は捲土重来を期して家康討伐に動くのです。

 秀吉亡き後、五大老として「豊臣家をよろしく」と家康に告げて亡くなっていった秀吉ですが、家臣どころかこんなにガチンコ戦争していて、平穏無事な主従関係などなかったことが分かります。ポジションは領土上の問題で与えざるを得なかっただけですね。それでも家康の領土を関東八州に移したのは、生前までは秀吉の方が圧倒的に有力だったためです。

 関白秀吉は威信にかけて徳川家康討伐を計画します。 小牧・長久手の合戦の時よりも大人数の軍勢を動員、美濃、近江を中心とした諸将に兵糧、 武具の準備を怠らないよう入念に指示し、自ら検分する程の熱の入れようでした。「家康許すまじ」というのが目に見えます。

一方、家康も指を咥えて見ていたわけではありません。 領国内の城、砦を補強、新造し防衛を強化し、関東の雄北条氏との繋がりを深め、 三河から関東までの勢力で秀吉に対抗しました。ところが、秀吉は家康の意表をつく手を打ちます。

これがまた調略、上手いんです。。