大地震で変わった日本史 天正大地震⑦ 徳川幕府を生んだ大地震

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秀吉は家康を滅ぼす気満々。
家康大ピンチです。

当時の先進地帯である畿内を支配下に治め、莫大な経済力を有する秀吉の物量の前に家康は完全に劣勢です。 加えて、秀吉は意表をつく一手を打ちました。石川数正水野忠重を寝返らせたのです!!

え?誰?と思ったと思います(笑)
歴史上たいして有名ではない石川数正。ここで裏切ったからですね笑
 数正は酒井忠次と共に徳川家の二本柱といえる重臣、忠重は三河刈谷城主、水野家は家康の生母於大の方の実家でした。 特に数正は徳川家の軍事機密、領国内の防衛体制を全て把握していました。
超重要人材です。昔から歴戦をくぐりぬけ、岡崎城代を務めるほどの重鎮中の重鎮。おかげで家康は軍政を全て武田の甲斐軍制に変えざるを得なかったと言われています。手の内がばれた、というのは武道や軍事では致命的です。

彼が豊臣側に出奔した理由は明確にはわかりません。家康の嫡男信康の後見人をしていましたが、信康を切腹させたところから不仲になったとも言われています。(家康は嫡男信康を切腹させています。信康は武田氏と通じているという理由で信長から圧力をかけられていたことが理由ですが、真偽の程は分かりません。かなりの猛将だった反面、理由なく領民を射殺すなど普段から素行が乱暴だった事も家康の悩みだったそうです)

秀吉は講和後も着々と家康を攻める準備をしました。
四国攻めと紀州攻めで長宗我部元親、雑賀衆を平定。大垣城に15万人の軍の備蓄を進めました。あとは徳川家を滅ぼすだけ。

一方家康は沼田領有問題真田昌幸が豊臣方につき、上田の攻防で大苦戦。背中に出来物ができて大変な中、さらに領内は50年来の大雨と言われる状況に小牧長久手の戦いで田畑が荒れ果て飢饉に。
領内経営自体が危ない状況になっていました。

そして石川数正の出奔。
徳川家を内と外から揺さぶった秀吉は、天正十四年(1586)の春、三河に進軍する旨、諸将に命じました。 家康、ガチで絶体絶命の窮地。
策を弄することも不可能。
おそらく普通に撃たれていたでしょう。

この窮地に起きたのが天正大地震でした。
発生した天正十三年(1585)十一月二十九日は、石川数正が秀吉に奔った十一月十三日の十六日後というきわどさです。 推定マグニチュード8、震度6の大地震は大勢の人命、建造物と共に秀吉の野望を砕きます。 家康討伐の準備をさせていた諸城が倒壊、作戦中止を余儀なくされました。 対して家康の領国は、被害はあったものの軽微でした。

地震地震後、秀吉は家康懐柔に方針転換します。 地震がなかったら、秀吉の大軍が三河に攻め込み、徳川家は滅亡こそ免れたとしても領国は大幅に削られ、 家康の切腹を条件に存続を認められる事態になった可能性は大です。 徳川家は三河の小大名に逆戻り、徳川幕府など夢のまた夢、になっていたでしょう。
地震がなかったら、間違いなく徳川家は滅亡。豊臣家は子供の問題がありましたが、西軍側で政権ができていた可能性が高いです。
徳川幕府は天正大地震によって生まれたのです。