地震で変わった日本史 関東大震災④
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。中学受験、御三家の社会を楽しく学びましょう。
関東大震災編。最終回です。
今日はもう一人の「ごとう」。五島慶太の話です。
五島慶太は鉄道院の役人を退官し、赤字鉄道会社武蔵鉄道(現東急東横線)の建直しを始めました。そんな五島に阪急グループ総帥小林一三が話を持ち込みます。小林は渋沢栄一から荏原電鉄(後の東急目蒲線)の経営再建を頼まれたのですが忙しすぎたので五島に任せたかったのです。
渋沢栄一も東京の都市開発を計画していました。本格的な田園都市を開発しようと田園調布、洗足一帯に45万坪の土地を分譲用に購入、分譲地を買った住民のために目黒、蒲田間に鉄道を敷設しようと荏原鉄道を立ち上げたのでした。この頃月賦、ローンという支払も普及してきました。
渋沢も鉄道経営は素人だったので経験者の小林を頼りました。その小林から依頼された五島は武蔵電鉄再建が先だと渋りましたが、小林の分譲地を売った資金で再建すればいいという説得に折れ、 経営に乗り出します。
関東大震災の前年大正十一年(1922)10月のことでした。 大震災後の、居住空間の郊外化を見逃さず五島は財界人、高級官僚に分譲地を売り歩きました。 こうして高級住宅地田園調布が誕生したのです。
1923年に東京工業学校(現東京工業大学)を大岡山に誘致。等価交換した蔵前の東京工業学校の敷地を震災復興局に転売、 武蔵電鉄を東京横浜電気鉄道に社名変更し、昭和二年(1927)渋谷、横浜間を開通させます。 後藤新平の都市構想と五島慶太の鉄道敷設によって今の東京の骨格が出来ました。
ここまでくると現在の東京の街とほぼ同じ輪郭になってきましたね。
終戦直後、新宿は台湾人、朝鮮人の街としてにぎやかさを取り戻し、
1960年代には新宿、池袋から西部郊外が開発されて行くのでした。
日本は戦争がなくても地震や火山で焦土と化しますが、そのたびに新しい街を復活させてきました。
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