地震で変わった日本史 安政大地震③
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水戸徳川家上屋敷は敷地面積10万坪という広大さです。その広大な屋敷にあった多くの建物が倒壊し、死者46人を出しました。 この中に藩主徳川斉昭の側近、藤田東湖、水戸藩の家老戸田忠太夫が含まれています。 水戸徳川家で、「両田」と称された柱石を斉昭は失ってしまったのです。 ペリー来航から2年、世相は騒がしくなっています。 開国だ!攘夷だ!と議論が繰り返される中、後期水戸学が提唱する尊皇思想が注目されます。 日本中の侍に尊皇思想が広まり、後期水戸学の創始者藤田幽谷の息子藤田東湖は彼自身が優れた学識を有しており、 尊皇派の尊敬を集めていた中彼の死は衝撃でした。
水戸藩は東湖と戸田の死で希望の星を失い、急進派と保守派の内部抗争が激化しました。 急進派脱藩浪士たちは大老井伊直弼暗殺へと暴走、その後も藩内抗争が続き、 水戸徳川家は歴史の中心舞台から去ってゆきます。地震によって趨勢が変わってしまいました。
水戸藩が安定していたとしても、徳川幕府は倒れたでしょうが、大きく違った歴史を辿ったのは間違いありません。 水戸藩以外にも安政江戸地震が幕末史に及ぼした影響はあったかもしれません。
この地震が起きる前年にも大地震が発生していて、幕末は外圧や各藩の情勢だけでなく、自然環境も荒れていたのです。こうした状況が徳川幕府にダメージを与えました。
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