平成27年桜蔭中社会①より 文化問題⑤源平合戦
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
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今日は源平合戦です。
前にも書きましたが、そして今『鎌倉殿の13人』もやっているのでわかっている人も多いですが、実体は平平合戦です。
「公家化した京都の平氏VS坂東武者」という構図。
京都から派遣された平氏が地元坂東に来て偉そうにしているのが気に入らなかった。税収とかいろいろ持っていかれるわけですね。そんな構造を、自分達の地元の利益は自分達に!というのが根本的な戦う動機です。
一部の研究者では「広域連合源組」という言い方をしていますが、ある意味暴力団的組織だった面もあります。
国が中央集権化していた徴税権や領主権、裁判権を勝手に解除していっちゃうんですもんね。
ここで設問に出てきた戦いを見てみましょう。
山崎の戦い
いきなりですが源平合戦の時代ではないですね。山崎の戦は京都府で、豊臣秀吉軍と明智光秀軍の戦いです。1582年本能寺の変の後ですね。
■壇ノ浦の戦い
ここはもはや源平合戦のクライマックス。源義経が平家滅亡へと追い込み最後の決戦となります。
平清盛はもともと瀬戸内海の海賊征伐から頭角を現し、瀬戸内海貿易を牛耳っていたため権勢を伸ばしていたのでした。
ここではまだ幼い安徳天皇が水中に没します。
三種の神器と一緒に。。悲しい話ですね。
琵琶法師の『平家物語』。こちらは国語で出るでしょう。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の断りを表す
奢れる者も久しからず ただ春の世の夢のごとし
猛き者もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ
現代の琵琶法師も語り継いでいますので是非聞いてみてください。
■屋島の戦い
源義仲(木曽義仲)に敗れて京都から都落ちした平家は九州太宰府まで逃げます。さすが瀬戸内海、スイスイ移動できてますね。
この後木曽義仲は鎌倉とぶつかり、宇治川の戦いで源義経・範頼と戦い敗北します。この隙に平氏も勢力を立て直して福原まで進出してきました。福原は平清盛が移転させた都ですね。福原京。大和田泊は重要な貿易港でした。
ここで戦ったの一の谷の戦い。崖を駆け下り急襲して平家に大打撃を与えました。
この後追撃したいものの、源氏の軍勢は水軍を持っていませんでした。源範頼が追撃に苦戦する中、平氏が瀬戸内、京都でも反撃を繰り返しています。源義経も京都で検非違使(現代の警察ですね)に任じられ京都の治安維持に当たっていました。
そして摂津(大阪)の水軍渡辺党、熊野水軍、伊予水軍を味方につけ、海戦の準備を整えました。
屋島の戦いは、讃岐(香川県)に拠点を構えた平氏が海からくるだろうと陣を構えていたところ、義経軍は寡兵で大坂から徳島へ向かい、陸路で後ろから平家の陣を襲ったのでした。海からくると思っていた平氏は陣を崩し海へのがれます。ここで有名なのが那須与一。船の扇を見事弓で射抜き、坂東一の弓使いの名を上げます。これにより平氏は四国の拠点を失ったのでした。また船で海をさすらいます。
■富士川の戦い
時系列で言うと源平合戦の最初の方です。
源頼朝が坂東で挙兵したのですが石橋山の戦いで早々に敗れます。そこから安房国(千葉県)へのがれ再起を図ります。千葉から坂東武者を募り、大軍を引き連れて鎌倉に入るのでした。一方甲斐国(山梨県)で挙兵した武田信義は甲斐・駿河・遠江を支配しました。
そんな中平家が頼朝討伐に進軍してきます。平家方は兵糧が欠乏して士気が低く、4000騎で劣勢なところ2,000騎が脱走。水鳥の羽音にビビッて混乱し撤退したと語られています。実際は水鳥よりも戦力差を考慮していたか、夜襲を察知した者の迎撃準備ができていなかったから撤退したものと考えられています。
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