2018年豊島岡中学校第2回社会より 遣唐使④ 日本最初の大敗戦と留学生

どうも。歴旅です。
今日もぶらりと歴史旅。

といきたいところですが、、今回は遣唐使乱世編。
だいぶシリアステーマです。

戦時中の遣唐使。頑張ってるしやばいんです。
がんばれニッポン!みたいな状況です!



■遣唐使前半最大のテーマ 白村江の戦い
 そもそも隋の時から大陸との交流を重ねていますが、まさか双方戦争になるとは。
 聖徳太子の時代には「日出ところの天子より~」で始まる国書で煬帝を怒らせたとありますが、それで戦争になる事はありませんでした。遠いし、高句麗攻めるのでいっぱいいっぱいでした。

そのため朝鮮半島で常に戦争の兆しがありました。当時朝鮮半島は高句麗・百済・新羅に分かれていました。これらがそれぞれ周辺国と同盟を結んだりしながらバチバチやっていた時代でした。

そんな中、百済が滅亡します。生き残った鬼室福信(きしつふくしん)という将軍が抵抗運動を続け、百済を復活させるために日本に人質として滞在していた王室の扶余豊璋(ふよほうしょう)を立てたいと援軍を求めてきました。
そんな百済を復興するために大量の日本水軍を朝鮮半島に送り、唐の水軍と戦ったのが白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこう)です。これは日本史上大きな時代の転換点です。

 諸説ありますが、一般的には百済まで水軍を送り大遠征をおこなったにもかかわらず、大唐帝国相手に大敗北を喫しました。
 いや、かなりやばい。比較するなら1945年の対米敗戦と同じくらいやばかったんです。
 この時に唐が侵攻しに来ていたら、今の日本はなくなっていたでしょう。663年の白村江の戦いでヤマト民族消滅でした。
 この時の「まじやべーよ!」という意識から、大化の改新、律令の制定、日本書紀編纂、大仏建立などなどの動きに繋がってきます。豪族連合では太刀打ちできず、「日本」としてまとまり、国づくりが必要になったのでした。

さて、この頃遣唐使は戦争相手国にいてどのように思ったのでしょうか。
遣唐使の派遣期間は630~894年。
白村江の戦いは663年。

おかしくないですか?
敵国と戦っているのに、わりとすぐに遣唐使は再開されているのです。
それこそ665年の2年後くらいには第5回遣唐使が派遣されています。
年号だけ暗記していても素直に覚えるだけですが、
「戦争しているのになんで交流続いているの?」
という疑問から、歴史の深堀が始まります。

■超絶苦労した遣唐使

白村江の直前の遣唐使です。
伊吉博徳(いきのはかとこ)
大伴部博麻(おおともべのはかま)
この2名、超絶体験しています。

最初の遣唐使は、遣隋使の延長のような形で派遣されました。遣隋使経験者が渡唐しています。しかし朝鮮半島情勢が怪しくなって、唐が遠征軍を送る計画をし始めます。
伊吉博徳は白村江の戦いの4年前くらいに長安に向かっていますが、一緒に行った韓智興が部下の讒言(うその申告)で三千里の流刑にされたり、とにかく大変でした。そして唐の百済遠征計画が計画され始めると、日本本国に伝えられないよう、長安に幽閉されます。
半分留学、半分外交という形で行ったのに、仲間は流刑にされるわ、捕まって幽閉されるわ。
わりと踏んだり蹴ったりです。しかしこの時は唐の仮想敵国になってしまっていたんので致し方ない。その後実際戦っていますし。しかし660年百済が滅亡すると解放されます。この時に洛陽で百済の王族、貴族50人ほどを目撃していますが、国が亡びるとどれほど悲惨なことになるのか、体験したのでしょう。詳細の記録は少ないですが、661年に日本に帰国し、留学生や僧侶の様子を報告しています。 しかしメインは唐の軍事能力、国力、そして対朝鮮半島、対日外交方針だったのではないでしょうか。幽閉されていたとはいえ、急いで帰らねば、という心境が伝わってきます。

664年、白村江の戦い敗戦後、百済平定鎮将の劉仁願(りゅうじんがん)という将軍が郭務宗(かくむそう)を日本に派遣します。彼は3,4回日本に来ました。GHQみたいですね。やばいです。日本ピンチ。

伊吉博徳は帰国後、郭務宗らの応接に当たります。百済の状態を見ているから必死ですね。これだけ聞くとやばそうですが、初回は本当に少数で来ていたようです。しかし3回目に来たときは郭務宗は2000人を連れて九州にやってきました。47隻の船が九州に現れ、大宰府は急変を知らせています。結果的に郭務宗は博多に滞在しただけで帰っていきます。唐の正式な外交使節でもなく、百済鎮将の部下が来ただけだったからでしょうか。意外とうまく追い返すことができました。
この頃に裏で何かあったんじゃないか、と考えることもありますが、

・2000人九州から近畿まで攻めるには戦力不足
・百済遺民が大半だった

という状況を考えると、基本的にはメッセンジャーだったのではないかと思います。本腰入れて攻めるには郭務宗は人数が少なすぎる上、権限がなさ過ぎた、というのが実情でしょう。
とはいえまでなんだかんだと駐留し、危機感は続いたと思います。
672年、彼は壬申の乱を見届けた後、帰っていきました。
インテリジェンス的な動きがあったかどうかはわかりませんが、当時の物理的距離、人数、郭務宗は中央まで行けなかったことを考えると、具体的なアクションはなかったのではないかと思います。

次に大伴部博麻(おおともべのはかま)、今福岡県の人です。
彼はもともと663年白村江の戦いに参加し、捕虜として捕まって長安に滞在していました。もうみじめ。
立場は違えど遣唐使も半分捕虜みたいなものでしょう。合流しているのでちょっと立場があまりよろしくない。遣唐使=捕虜みたいなもんです。

しかし670年、彼は唐が日本を侵略しようとしていることを知ります。
なんとかしてこの情報を日本に伝えなければならない。この時に4人ほど遣唐使仲間が一緒にいました。彼らをなんとか帰国させ、情報を伝えなければならない。しかし旅費がないから帰れない。

このとき彼がしたことは、仲間4人を日本に帰すため、自分を奴隷に売って旅費を捻出したのでした。驚異的です。
今は奴隷制度なんてないですが、今だったら2000~3000万円くらい作れるでしょうか。人材レベルによると思いますが彼は武人として能力があったと思うので、幹部クラスの転職の人件費と似たようなものかもしれません。

彼の必死の努力により、遣唐使4人は翌年671年帰国し、筑紫の太宰府に報告しました。「やばいぞ攻めてくるぞ」と。

こうした遣唐使=外交官の必死の情報のやり取りを通じて、日本は唐から攻め込まれることもなく、独立を守れました。どう守ったのか、具体的な記載は少ないですが、武力ではなく知略で攻め込まれないようにしたのは見て取れます。

でも、敗戦がどういうことになるのかよくわかりますね。。。
やはり影響は大きく残ります。

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Posted by rekitabipapa