2018年豊島岡中学校第1回社会より 空海⑦ しくじり留学生最澄

どうも。歴旅です。
今日もぶらりと歴史旅。

空海編。長いので後半ダッシュします!
帰国後は最澄とケンカしてただけです笑

■空海修行中
空海は山にこもって激しい山林修行をします。
ちょっと前に出てきた道鏡というのが山林修行を禁止していました。
さっきの私度僧が増加したためですね。脱税したいのでジョブチェンジ!していた農民とか諸々を規制するためです。しかしそのあと光仁天皇という人が解除しておいてくれました。

 当時の修行っていうのはもう本当に神秘体験するとか、覚醒するとかそういうのです。なのでよくわからないのでかっ飛ばしますが、空と海しか見えないところで虚空菩薩の真言を100万回唱えたらスーパー空海になったそうです笑
この体験から「空海」という名前を名乗り始めました。

■ライバル(?)の最澄との違い
 最澄さん。出てきますね。有名なお坊さんで、空海と二大巨頭ですね。
この二人、何が違うんでしょうか。結構立場が違います。

最澄:官僧。 国費留学生 既に一宗派トップ エリート
空海:私度僧。私費留学生 雑草

要するに、国のバックアップが全然違うんです。最澄はサクッと留学に行けますが、空海は苦労します。
最終的に欠員補充の滑り込みで遣唐使船に入り込みます。
佐伯今蝦夷の関係者、阿刀氏など天皇に話ができる人たちがいるので、最後の欠員補充に推してもらって遂に唐に出かけます。

■何しに唐に行ったの?
 唐に行ったんですが、空海は「大日経」「金剛頂経」を求めて旅しました。大日経は日本にも入っていたのですが、今と違いネットにアップロードされているフリーな情報ではなく、どこの寺にどのような状態で保存されているかもわからない状況でした。

このお経、要するに密教として必要不可欠なお経でした。
とにかく仏教、今はなしていても細かく抽象的で複雑で、何がどうなのか知るだけでも難しい。しかも当時は梵字(サンスクリット語。インドの言葉)で意味解読できる人もわずかで、最低限漢語訳がないと、という状況でした。

漢語訳されたこの二つの経典をゲットすること。
これで日本の最先端になれたのです。
お経。ミラクルアイテムですね笑

■空海、長安へ
 空海と最澄の違いはもう一つあります。
 長安に行ったこと。これが決定的でした。

 空海は遠く内陸の長安まで行きました。当時の首都で、最先端、且つ超国際的な都市でした。当時のゾロアスター教、マニ教、景教(ネストリウス派キリスト教)など様々な宗教が渦巻いており、シルクロードを通ってきた仏教以外にも、大乗仏教と異なるインドから直入荷したチベット仏教も入ってきていました。ついでにジャワ島も仏教国。今のインドネシア、ベトナム、タイみたいなところからも僧侶が集まってきていました。長安、めちゃ国際的ですね笑
長安の環境は様々な宗教を総合的に学べる環境で、密教はチベット仏教の影響が多く入っていました。今も昔も、都市の方が田舎よりもはるかに情報が集まっています。
 空海は唐の福州に流れついてから、なかなか入港・渡航許可が下りなかったのですが、格調高い嘆願書で長安までの渡航を許してもらいます。
移動距離2400キロ。めちゃ遠いです。

一方最澄の船は流れ着いたのは明州の寧波でした。この近くの天台山に行くことが目的で、ここで経典をもらい、帰るのがミッションでした。

最澄は何のトラブルもなくスムーズに目的を果たすのですが、
なんか事務的ですね笑 
なんちゃって留学みたいです。
彼の留学は本質的に「最大秘奥義の密教を持ち帰る事」ではなかったのです。

■密教最高僧 恵果に弟子入り
長安で学ぶ空海は、密教のお寺を訪ねると当時最高僧の|恵果《えか》に出会います。そこで恵果は空海の才能にほれ込み、いきなり弟子入りを許します。
さらに空海はそこで|灌頂《かんじょう》を受けました。(曼荼羅に目隠しして花を投げます)これは正当な継承者としてする儀式で、密教は経典だけではない世界があり、こうした儀式、真言、口伝伝授など実践がないと認められないのです。

なんだかトントン拍子で話が進んでいきましたが、極めて短期間で、ちゃんとした密教の継承者であり、位をもらったのでした。
ここで最澄とは大きく差がつくことになります。

■まとめ
 空海が得た金剛頂経(こんごうちょうぎょう)。これがのちの日本の密教の根本経典となります。
これまでの仏教と何が違うの?
 というのが疑問だと思うのでまとめます。

 原始仏教=一人で悟りを開く。苦行する。愛情や執着を捨てる
 
 これに対して疑問に思っていたのでしょう。
 善道尼との恋愛関係(?)において、愛情や執着を捨てることが幸せなのか?ゴールなのか?という人間的な感情に対する疑問が、空海にはずっとあったのだと思います。

 これに対して、密教はこうした愛情、執着などをある程度許容し、人間のまま成仏する思想でした。
 これを極めるためには経典だけでなく、実践が必要でした。帰国後最澄は経典を持ってきただけでいろいろすっ飛ばしたことに気が付き、かなり焦った事でしょう。
やべぇ!!って笑
実際にかなりしつこく空海に「経典化してよ」「灌頂ってどうやるの?」といろいろ聞いています。
空海「いや、経典見てもいいけど、生身で修業しないとダメなんだよ。だから弟子入りしてよね」
最澄「それはできぬ!」

一方国のエリートトップ僧のプライドがあり、いいとこどりしようとする態度に空海も反発。双方対立したのでした。

 より人間的な、大衆のための無理のない密教。
 これを日本にもたらした空海は、弘法大師様と呼ばれ、今でも多くの人に慕われることになったのです。

  めでたし、めでたし笑

平安時代

Posted by rekitabipapa