経済の歴史⑪ 経済・流通から見る長篠の合戦 ~戦う前から勝敗は決まっていた~
どうも。歴旅です。今日もぶらりと歴史旅。
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今日は長篠の合戦です。
武田信玄亡き後家督を継いだのは武田勝頼でした。
勝頼は諏訪四郎勝頼という名前で、元々4男だったこともあり武田家を直接継ぐ予定はなく、諏訪を統治する予定でした。なので家臣団は諏訪の武士。いきなり家督を継いで甲斐の家臣団を取りまとめて行くのですが、
生半可ではない苦労があったでしょう。
さて、そんな武田家が壊滅的打撃を受けたのが長篠の合戦です。
織田信長・徳川家康VS武田勝頼。
3万VS1万
の構図です(諸説あり)。
当時は最強騎馬軍団だった武田軍。
しかし信長が馬防策と鉄砲三段撃ちを使って武田の騎馬軍団に勝った、というのが通説です。
しかしこれを経済、流通面から見てみましょう。
武田軍は鉄砲を知らなかったのか?というと知っていました。
上杉謙信との戦いで第2時川中島の合戦では300丁ほど使って戦っています。
その威力を知らなかったはずはありません。
しかし長篠の合戦では使わなかった。いや、使えなかった、というのが正しいでしょう。
当時の鉄砲は量産化が始まっていますが、大阪堺を中心に貿易を行っていました。
流通の拠点としては既に信長が押さえている。
他滋賀での生産拠点もありましたが、ここも信長の手中になっていた。
そうすると武田軍は鉄砲が欲しくても入手困難な状況になっていました。
流通面で信長は甲斐までのルートを遮断し、供給不能にしていたのでした。
経済的にも差異が生じています。
鉄砲は現在価値でおよそ60万円ほどでした。
1000人の鉄砲隊をそろえるには数10億円が必要とされています。
当時の兵士1人当たり装備は75万円程度でした。武具、槍、刀、馬など揃えると結構しますね。
しかし鉄砲隊は150万程度。倍はします。
この資金力を信長は貿易港を押さえ、交通の要衝を押さえることで資金繰りを可能にしていました。
武田氏も元々は資金潤沢でした。なんせ甲斐には金山がゴロゴロしていたので。。
しかし鉄砲という新しい武器が出現し、堺の貿易港がそれを独占した段階で軍事的優位性は戦う前から変化していったのでした。
これは現在でも通じますね。
戦争する前からある程度勝敗は決まっています。
だから負け戦は戦ってはいけません。
つまり、戦争してもしなくても、平常時から有事を意識して常に経済的、軍事的優位な立場を維持し続けなければならないのです。
それができなくなった時、いちゃもん付けられて攻め込まれます。
理由なんてなんでもいいことは「「国家安康君臣豊楽」が家康の字を切っている!」といって豊臣家を滅ぼしたころから特に変わっていません。
個人的に武田家滅亡は涙涙の物語ですが、強者であり続ける必要性を学ばせてもらっています。
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