経済の歴史⑫ 織豊時代

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織豊時代。聞きなれないかもしれませんが、織田信長、豊臣秀吉の時代をまとめてこう呼びます。

この時代の経済はどう変化していったでしょうか。
突然ですが問題です。豊臣秀吉が実施した全国の土地制度を統一する政策はなんといったでしょうか。

はい。織田信長は楽市楽座や交通の要衝をさえて徴税、堺の街からも徴税とこれまでの土地に縛り付けられていた武将とは異なる経済政策を実施していきました。商売が分かっていますね。
この時代は貿易が盛んになってきたことから、物資と資金調達の面で毎年の生産に頼る農業とは異なる成長の仕方が可能になっていたんですね。短期間での戦費調達可能だったんです。
これもあってか、京都に進出しながら領土を拡大していく信長がこれまでと異なる点は、武将を支配した土地にどんどん転封させていったんです。これ以降は当たり前になっていくのですが、武士と土地はかなり緊密な関係でした。土地を守るために死んでいくこともあった中、拡大した領地に自分の部下をどんどん貼り付けていくためには武将と土地を切り離す必要がありました。これも信長から始まった新システムです。人使いも荒く異動も多く、石高加増したとしてもうれしい反面悲しい。ストレスは高かったでしょう。

さて、信長の後を継いだ豊臣秀吉は太閤検地を実施します。
この目的は何でしょうか?
これは田畑の所有者と耕作者を特定してシンプルかつ公平に徴税しようというもの。
検地自体は秀吉が初めてではないですが、検地=増税に繋がり得るので下手に実施すると一揆が起こる可能性がありました。
これができるようになったのは秀吉の強力な政治力と権力があったからこそです。

結果として見えてきたのは、全国の相克高は1851万石、現在価値で1兆3882億円相当でした。

太閤検地のメリットは、
①中間搾取を排除した
銅銭で納める貫高制から、米で納める石高制にした
度量衡の実施
です。

戦国時代は中間搾取や二重搾取があり、農民は誰にどのように納めればいいのか、あるいは何が正しいのかわからず収奪されているケースもありました。それを一元化した。
また、田んぼの広さに応じて銅銭で支払う貫高制が続いていたのですが、戦国時代になって大陸から銅銭が入ってこなくなり、換金も銅銭入手も面倒でした。これをやめて直接米にする。
為替手続きが不要になったんですね。農民にとっても便利になりました。
そして度量衡の統一。なんだかんだで枡の大きさが違ってると最終的に収穫の確認も変わってしまいます。これを京枡に統一。長さや面積も統一しました。

結果石高NO1は陸奥の167万石となったのですが、現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県を含むのでそれはそうですね。大きくくくりすぎです。
NO2の近江78万石は素直にすごいですね。滋賀県豊かすぎです。

豊臣秀吉の天下は短かったですが、やはり経済人として残した功績も未だに大きいですね。
朝鮮半島出兵でその後西国大名が戦費のリターンがなく苦しむことになりましたが、
それを含めてもビジョンと政治力には脱帽です。

答え:太閤検地